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わたしたちの市の歩み

歴史に残る人や文化財

毛受家照めんじゅいえてる(毛受兄弟)

本能寺ほんのうじの変の後、信長の跡をついで天下をとるべく賤ヶ岳しずがたけの合戦を戦った柴田勝家と羽柴秀吉。 合戦に敗れ、余呉から越前(福井)へ退却する柴田勝家の軍を追う秀吉軍。そのとき、勝家の家来であった毛受兄弟が主君を守ろうととった行動とは何でしょうか。

毛受家照とは

毛受家照は名を勝照とも言い、通称勝助しょうすけと呼ばれていました。織田家の重臣だった柴田勝家のそばに仕える近侍でした。12歳で、柴田勝家の小姓として取り立てられ、後に小姓頭となり、1万石を与えらました。勝家の信任も厚い武将でありました。

主君のために身代わりになる

賤ヶ岳の合戦において、大岩山の初戦では柴田勝家の軍が勝利を得ましたが、羽柴秀吉のすばやい行動を予測しきれずに、次第に勝家側の敗色が濃くなっていきました。
そこで大将である勝家は自らが兵を率いて決戦を挑もうとしました。そのとき毛受勝助は、主君に対し、「ここはいったん北ノ庄きたのしょう(福井の勝家の居城)へ戻って再び陣を立て直しましょう」と進言しました。 さらに勝助は、主君の具足(よろいかぶと)を借りて身につけると追って来る秀吉軍に対し、合流した兄の茂左衛門しげざえもんたちと懸命に戦いました。
しかし加藤清正をはじめとする秀吉軍の一斉攻撃を受け、勝助以下全員が討ち死しました。勝家本人かどうかを見る首実検の結果、討ち取ったのは主君の身代わりとなって戦った勝助であることがわかりました。 この間に柴田勝家は、陣容を整えるために北の庄の自分の居城にたどり着くことができたのでした。
主君のために命を投げ出して戦った兄弟の姿は秀吉をいたく感動させ、その霊を厚くとむらいました。

今も残る兄弟の墓と守り続ける地元の人たち

毛受兄弟の忠節(ちゅうせつ)は、後の世までも語り継がれ、明治9年(1876)この地を訪れた滋賀県令(県知事)籠手田安定こてだやすさだによって、林谷山麓さんろくに墓が立てられました。 鉄柵で囲われた墓の周囲は整備され、遊歩道が設けられています。(毛受兄弟の墓・長浜市余呉町新堂)今も位牌のある近くの全長寺ぜんちょうじや地元の保存会の方々によって毎年法要が続けられています。

教科書との関連

  • 小学社会6年上70頁「天下統一と江戸幕府」《信長・秀吉・家康と天下統一》(日本文教出版)
  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)106頁《第4編「近世の日本」天下統一と近世社会の基礎づくり》

参考資料

  • 滋賀県観光情報ホームページ
  • 「ふるさと伊香」(伊香郡社会科教育研究会編)