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わたしたちの市の歩み

歴史に残る人や文化財

雨森芳洲あめのもりほうしゅう(1668~1755)

鎖国の時代にあって、おとなりの東アジアの国との交流を行った江戸幕府。その交流の仲立ちとして大きな働きをした雨森芳洲はどんな生き方をしたのでしょうか。

学びに出る

芳洲は、江戸時代中期の日本を代表する儒学者。近江国伊香郡雨森村おうみこくいかぐんあめもりむら(長浜市高月町雨森)の医者の子として生まれました。
12歳の頃、京都で医学を学び、さらに18歳の頃江戸に出て朱子学者しゅしがくしゃ木下順庵きのしたじゅんあん のもとで勉強をしました。
同門の新井白石あらいはくせき室鳩巣むろきゅうそうらとともに秀才と唱われました。

対馬藩(つしまはん)に仕える


雨森芳洲肖像(「芳洲会」所蔵資料)

九州と朝鮮半島との中間に浮かぶ島にあった対馬藩(現長崎県)に仕えました。
その頃の日本は、鎖国の時代でしたが、となりの国朝鮮とは「通信の国」として「善隣友好ぜんりんゆうこう」の交わりがあり、江戸幕府にとって対馬藩は、日本と朝鮮とを結ぶ外交の窓口でした。
そこで芳洲は、約40年間にわたり、儒学者として藩主らへの講義をおこなうほか、外交・貿易についてさまざまな働きをしました。
元禄11年(1698)、朝鮮方佐役ちょうせんかたたすくやく朝鮮担当部補佐役ちょうせんたんとうぶほさやく)という役につき、初めて韓国の釜山ぷさんに渡り、釜山の倭館わかん(日本人が常駐した役所)に滞在して朝鮮語を学びました。
この間、朝鮮側の日本語辞典『倭語類解わごるいかい』の編集に協力し、自らも朝鮮語入門書『交隣須知こうりんすち』を作成しました。

隣国との間で「外交官」として活躍

正徳元年(1711)には、江戸幕府6代将軍徳川家宣とくがわいえのぶの就任を祝う朝鮮通信使ちょうせんつうしんしに随行して江戸に赴きました。
また、享保4年(1719)には江戸幕府8代将軍の徳川吉宗とくがわよしむね就任を祝うためにやって来た朝鮮通信使ちょうせんつうしんしにも随行しました。
芳洲は、朝鮮語をはじめ中国語にも通じていたので、通訳なしで朝鮮語での意見交換ができました。
そのため、江戸幕府と朝鮮の間にたってむずかしい問題をまとめあげ、その実力を発揮しました。

「誠信の交わり」

朝鮮交接こうせつは、第一に人情にんじょう事勢じせいを知り候事そうろうこと肝要かんようにて候
互いにあざむかず争わず、真実を以て交わり候を、誠信とは申し候

芳洲が、藩主に上申した対朝鮮外交の指針書『交隣提醒こうりんていせい』の言葉です。 「国によって風儀も嗜好も異なるので、日本側のモノサシだけで接しては必ず不都合が生じる。
相手国の歴史・言葉・習慣・人情や作法などをよく理解し尊重して「誠信の交わり(まごごろの外交)」をおこなうべきである」と主張したものです。
ところで、多くの日本人が芳洲のことを知ることになったのは、平成2年(1990)に来日した当時の韓国の盧泰愚のてう大統領の宮中晩餐会きゅうちゅうばんさんかいでの挨拶でした。
盧泰愚大統領は雨森芳洲の名をあげて、彼の「誠信外交」の精神-国際交流の基本は互いに欺かず争わず、真実を以って交わる「誠信の交わり」が必要である―を取り上げて江戸時代の日韓友好の歴史について述べました。

教科書との関連

  • 小学社会6年上81頁「天下統一の江戸幕府」《江戸時代の外国との交流》(日本文教出版)
  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)118頁《第2編「近世の日本」②江戸幕府の成立と東アジア・隣接地域との関係》

資料提供

  • 高月観音の里歴史民俗資料館

参考文献・資料

    国の重要文化財「雨森芳洲関係資料」と市指定文化財「雨森芳洲文庫」は、雨森芳洲の著書・遺品など、対馬雨森家に伝来した資料類です。 芳洲のことはもとより、当時の藩政・外交・教育等を知る上で、きわめて貴重な資料です。

    公爾忘私国爾忘家 附十箇条訓言(こうのみわたくしをわすれくにのみいえをわする)
    第6代藩主となった宗義誠公に上申した藩主としての心得所有者 芳洲会(管理団体・長浜市、高月観音の里歴史民俗資料館保管)