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わたしたちの市の歩み

歴史に残る人や文化財

落合謙太郎おちあいけんたろう(1870~1926)

「ポーツマス条約」を結んだ外務大臣として、小村寿太郎は有名だが、その場に、長浜市出身の人物が書記官として出席していました。その人物とは…。

落合謙太郎の生涯

明治から大正時代に外交官として活躍した落合謙太郎は、浅井郡川道村(川道町)の落合孝平氏の長男として明治3年(1870)年2月21日に誕生しました。
明治28年(1895)、東京帝国大学を卒業、難関の外務官及び領事官試験(今の国家公務員上級試験)に合格し、外務省にはいりました。 外交官として、ソウル、杭州、駐ロシア日本公使館、駐フランス日本公使館などに勤務しました。
そのころ日露戦争で日本はロシアに勝利し、明治38年(1905)年8月にアメリカのポーツマスで講和会議が行われました。 そのポーツマス講和会議に日本側全権大使の小村寿太郎こむらじゅたろうを補佐する首席書記官として謙太郎は出席しました。


ポーツマス会議で 手前左から二人目

その後、ロシア、中国法典の領事館に勤務し、互いの利益を巡っておこる日本と相手国の間の様々な対立の中で、軍事的な衝突が起こらないようにと外交官として奮闘しました。
その後、イタリア、オランダ、デンマークに特命全権公使として赴任しました。 大正8年(1919)年には、第一次世界大戦後のベルサイユ条約が結ばれたパリ講和会議に日本の西園寺公望さいおんじきんもち全権大使について参加しました。 さらに、大正11年(1922)にスイスのローザンヌで開かれた和平会議には日本の全権委員として出席し、ローザンヌ条約を結びました。
大正13年(1924)にイタリアで開かれた会議には、先のパリ講和会議に続いて人種差別撤廃決議案を提案しましたが、認められませんでした。
その後もイタリア王国特命全権大使として活躍しましたが、大正15年(1926)年6月4日、日本への帰国途中に東シナ海の船上で病気のため亡くなりました。6月24日、大通寺において葬儀がとりおこなわれました。

学校を卒業したのち、生涯をほとんど外国で過ごした謙太郎は、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語を使いこなしたといわれます。 戦争に明け暮れた20世紀前半の激動(げきどう)の世界の中で、日本の外交官として生涯をささげた人生でした。

教科書との関連

  • 小学社会6年上120頁~「国力の充実をめざす日本と国際社会」《二つの戦争と人々のくらしの変化》(日本文教出版)
  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)188頁~《第5編「近代の日本と世界」日清日露の戦争と東アジアの動き、第一次世界大戦と戦後の世界》