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わたしたちの市の歩み

歴史に残る人や文化財

草場左京くさばさきょう(1875~1941)

名医といわれた草場左京とはどんな生き方をした人だったのでしょうか。


「虎姫の昔ばなし」より

三川の入り口に「くさば先生」という皮膚科のお医者さんがおられました。 連日、胎毒たいどく(乳幼児の頭などにできる皮膚病)などに苦しんでいる幼児を抱えたお母さんたちが待合室からあふれ、表までならんだといいます。 先生の名を草場左京といい、明治8年(1875)、草場佐仲さちゅう医師の長男として生まれ、大阪高等医学校(今の大阪大学医学部)を卒業後、地元で診療をおこないました。
温厚な人がらの先生だったといわれています。草場医院は、先代の佐仲医師の時、虎姫で開業し、家伝の胎毒に効く薬で、全国的に有名になりました。 そのため毎日訪れる患者の数は多く、朝8時から始まる診察が、夜の11時を過ぎることがしばしばだったといいます。


  • 円融寺

先生は信条として、一人ひとりをていねいに診察し、薬をぬることから包帯を巻くまで、看護士の手を借りずに、先生自らがされました。貧困のため診療を受けられない人や長期の治療が必要な人には無料で診察をしたりしました。

ハンセン病の患者が先生の評判と家伝の薬を頼りに治してほしいと訪れることもありました。 ハンセン病への偏見や差別が強くあった中で、ある患者は、5年以上も通い続けました。けれども、いつも先生自ら薬をぬり、包帯をしながら、患者に心からの励ましの言葉をかけました。 しかも治療代は無料でした。この患者は、先生の人間愛にあふれる姿に声をつまらせてむせび泣きし、手を合わせながら帰って行ったと伝えられています。

一方、先生は、京都の有名な俳人に学んで、「黙々道人もくもくどうじん」と称して俳句を詠みました。 転居した後、前の自宅跡をお寺(円融寺えんゆうじ)に寄付したり、学校や地域社会に寄付もされるなど生涯地域の人々のために奉仕し、昭和16年(1941)6月24日、68歳の生涯を閉じました。

教科書との関連

  • 小学社会6年上126頁~「国力の充実をめざす日本と国際社会」《明治・大正時代を生きた人々》(日本文教出版)
  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)《第5編「近代の日本と世界②二度の世界大戦と日本》

参考資料

  • 「虎姫のむかし話」