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中世

姉川古戦場の史跡

元亀元年(1570)6月28日に、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍の間で合戦が行われる。世に言う姉川合戦である。姉川合戦は姉川を挟んで両陣営が激突し、付近には当時の合戦の様子を伝える史跡が今なお残されている。

姉川北岸の史跡


三田村氏館(朝倉景健陣本陣跡)、遠藤喜右衛門の墓

姉川合戦の時に浅井長政本陣があった場所を陣田と呼び、今に伝えられる。現在の野村集落に位置し、ほ場整備が行われるまで当地には小高い丘が存在し、合戦場付近を見渡せる状況に有った。 また、浅井長政が陣をおいた野村の集落南側を流れていた川は血川と呼ばれ、合戦により血で染まったようである。
朝倉軍と徳川軍が布陣した場所の中間地点には血原といい、両者の激突により血で染められたのであろう。
姉川の北に位置する三田集落内には三田村氏の屋敷跡が立地する。三田村氏は浅井氏の家臣で三田町周辺を支配しており、現在屋敷跡は伝正寺の境内となっている。 屋敷の規模は60m四方で、周囲は土を盛り上げて作った土塁と呼ばれる塀に囲まれる。土塁の外には堀を設け、近年の発掘調査によって、土塁の内側にも2本の溝があることが判明し、土塁の構築も2時期に分かれることが判明した。

姉川南岸の史跡

姉川合戦の時に、織田信長が陣太鼓を柳にかけて指揮した伝承がある場所は、「陣杭の柳」と呼ばれる。現在の柳は5代目と言われ、もともと現在地より10m北西に立っていたが圃場整備により現在地に移植されている。 織田信長や徳川家康が、姉川合戦直前の6月24日から陣を敷いたと言われる場所は、龍ヶ鼻と呼ばれている。龍ヶ鼻は、横山城が位置する横山丘陵の北端に位置し、北には姉川が流れる。 当地は、古墳時代に大小様々な古墳が築かれており、戦国時代に古墳の起伏を利用して砦に作り替えられている。
龍ヶ鼻付近には、姉川合戦の際に浅井家の重臣遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられる墓が存在する。 遠藤直経は、姉川合戦時に自軍の配色が濃厚になると味方の武将首一つを携え信長軍陣中深くに忍び込んだが、竹中久作重矩(半兵衛の弟)に見破られ討ち死にしたと伝えられる。 当地の北40mの畑の中に塚が有り直経の墓と伝えられていたが、圃場整備のため現在の場所に移転している。その他、姉川合戦にまつわる場所は数多く存在する。

資料

「姉川合戦両軍対陣図」

教科書との関連

  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)103頁《第4編「近世の日本」 ①中世から近世へ 3ヨーロッパ人の来航と信長》

参考文献

  • 市立長浜城歴史博物館『常設展示―湖北・長浜のあゆみ―』(1988年)
  • 太田浩司『浅井長政と姉川合戦―その繁栄と滅亡への軌跡―』(サンライズ出版 2011年)

写真

  • 三田村氏館(朝倉景健陣本陣跡)、遠藤喜右衛門の墓