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中世

菅浦文書

長浜市菅浦は、中世(鎌倉時代~室町時代)の庶民の生活が分かる古文書が1,200点余り残っている。また、現在の景観も文化財としても貴重な「湖岸集落」として、国の「重要文化的景観」として選定されている。
中世の惣(自治組織)はどのような役割を持っていたか、その時代の人々の生活の様子はどうだったのだろうか。

「惣」とはどんなものか?


菅浦位置図

鎌倉時代の終りから室町時代にかけて、菅浦には住民が集って村の中のことを決める自治組織「惣」という組織があった。 「惣」は悪いことをした人を捕まえることが出来たので、今の警察の仕事をしていた。また、その犯人を裁くこともしたので、今の裁判所の役目も果たしていた。 つまり、小さな村の中で、今は日本の国が行なっていることを、自ら行なっていたのだ。
一方、自分たちで村を守と言うことは、他の村と争いがあった時は、武器を持って戦わなければならなかった。菅浦の歴史のなかでは、この戦いで多くの村人が死んでいる。 村人が自分で村を守るということは、多くの犠牲がともなったことも重要である。
菅浦以外にも、近畿地方では「惣」が発達したと考えられるが、あまり史料が残っていないので、その実態がよく分からない。その意味では、「惣の典型」として、菅浦の歴史と文化は、全国に誇れるものなのである。

中世菅浦の景観

  • 菅浦与大浦下庄堺絵図
    須賀神社(菅浦自治会)蔵

  • 菅浦惣庄置文 須賀神社(菅浦自治会)蔵

菅浦は集落の前に湖があり、後には山が迫っていたので、田んぼや畑などの耕地が村の周囲にはなかった。 村人は湖上を船で、あるいは山を越えて、大浦の集落に近い日指ひさし諸河もろかわという、 16ヘクタール程の田んぼを耕作に行っていた。だから、日指・諸河は菅浦にとっては、たいへん大切な耕地であったので、約200年にわたって隣の大浦と、どちらのものか争ったのは有名な話である。
今、菅浦に行くと「四足門」と呼ばれる二つの門が残っているが、これらは村の内と外を分ける役目をはたしていた。中世の村人は、山の中には悪い病気や、人を不幸にする神々が住んでいると信じていた。 それらが村の中に入ってくることをたいへん恐れ、この門で防ごうとしていたと考えられる。 また、集落の山際には10を超えるお寺が並んでいたが、これらも山から悪いものが入ってくることを防ぐ役割を果たしたと見られる。中世の人たちは、目に見えない魔物や神仏の力を、今より信じていた。

村の取り決めと有力者

中世の菅浦では、20人の「乙名おとな」と呼ばれる人々を中心に、自分たちの村を自主的に運営していた。 領主の代官を頼らず、年貢を乙名たちでまとめて領主へ届ける「地下請じげうけ」。 また、他の村との裁判や合戦を指揮するのも乙名の役目だった。さらに驚かされるのは、10余りの「掟書おきてがき」と呼ばれる村の法律をつくっていたことが知られている。 この法律では、ご主人がいない家などからは税金を取ってはいけないと決めている。弱い立場の人を守る仕組みも存在した訳だ。
この法律を読んでいると、この時代の菅浦は犯罪者を捕まえて、裁判にかけることができたことが分かる。今の警察官や裁判官がしていることを、村人自らがしていることになる。 他にも、証拠書類によって裁判を行なうこと、誤って犯人にすることがないよう決めている。 今では当たり前なことだが、中世という時代は犯人を投票で決めた村もあったので、菅浦がたいへん進んだ法律の考え方をもっていたと言える。

大浦との堺相論

菅浦と大浦は約200年にわたって、日指・諸河という田んぼを取り合ったのだが、室町時代には村人同士が戦う合戦が起きている。 武士同士の合戦は、中世という時代ではよく知られているが、同じ時代、菅浦に限らず日本全国では、村人同士が戦わなければならかったことが、普通に起きていた。 今に比べると、日本の国の警察の力や裁判のあり方が整っていなかったので、村人は自分の村を守るためには武器を持たなければならなかった。


菅浦の四足門 撮影/寿福滋

菅浦のすごいところは、この合戦の記録を、村人自らが記録した文書が残っていることである。 文安2・3年(1445・46)と寛正2年(1461)の争いについて、村人が記録した合戦記がつくられている。 文安の合戦では、最初大浦が菅浦の集落を攻め、次いで菅浦が大浦の集落を攻めており、大浦での戦いでは菅浦側の人が16人も亡くなっている。 寛正の合戦では、菅浦は松平という代官が率いる軍勢に包囲され、「乙名」が降参に出向いて許された歴史がある。

資料

菅浦文書の1例として、寛正2年(1461)の「菅浦惣庄置文」の【読み下し】と【現代語訳】を下に掲げた。

【読み下し】

菅浦諸沙汰さたの事定
右或あるいハ盗人ゆふとも、雑物ぞうもつを引き下し、
或ハ額のかミをとり、支証亀鏡ししょうきけいの有事ハ
上廿人かみにじゅうにん乙名おとな、 次の中乙名、又末すえの若衆
相ともに、如法沙汰致にょほういたすべし、敵人にくむに
事を左右そうに寄せ、惣庄の力を以て人を損じ、いわれ
無き者を過躰過躰かたい行なわれそうろう事、 更々さらさら勿躰もったい
なき次第しだい是也これなりただし支証ある事ならハ、
惣庄相ともに過躰を行うべし、この旨(むね)に背き
ぬけかけに成、寄合をつかまつらず、惣識
事私事を後に向け、地下じげを煩わせるやから
返りて惣庄において、見こりきゝこりの為ニ、
かたく罪過に行わるべき者也ものなりよっ置文おきぶみの状、くだんの如し、
 為善(略押)  正阿ミ(略押)
惣庄置文さだむる所 廿人乙名中
 宗円房(略押) 清介(略押)
 為清(略押)  正信(略押)

寛正貮年七月十三日

【現代語訳】

村の中で盗人が出た場合は、その盗品を差し押さえ、盗品の額が分かり、証拠が明白であるなば、「惣村」の乙名(二十人)・中の乙名・若衆として、法に従って盗人を裁くべきである。 普段から憎んでいる人を、いい機会だといって、「惣村」の力をかりて、無罪な人を罪に陥れることは、不都合なことである。ただし、証拠があるなら、「惣村」として断罪を行なうべきである。 この掟に背き、抜け駆けを行い、捜査や裁判のための寄合を行なわず、私に断罪を進め、「惣村」を裏切る者があれば、懲らしめのために罰するものである。

寛正貮年七月十三日

教科書との関連

  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)79頁《第3編「日本の中世」 ③室町幕府と下剋上 3産業の発展と都市と村 村の自治》

参考文献

  • 蔵持重裕『中世 村の歴史語りー湖国「共和国」の形成史』(吉川弘文館、2002年)
  • 長浜市文化財保護センター「地域学習シート 菅浦を守った人たち」(2012年)
  • 長浜市長浜城歴史博物館『菅浦文書が語る民衆の歴史ー日本中世の村落社会ー』(2014年)

図版・写真

  • ①菅浦位置図
  • ②菅浦与大浦下庄堺絵図 須賀神社(菅浦自治会)蔵
  • ③菅浦惣庄置文 須賀神社(菅浦自治会)蔵
  • ④菅浦の四足門 撮影/寿福滋