夏、夜空を彩る光の祭典が花火です。日本の各地で花火大会が催され、長浜でも八月初旬に花火大会が開催されることが恒例となっています。日本の花火の歴史は十六世紀くらいにまでさかのぼるといい、戦国時代の史料には花火と思しき記録が見られることから、鉄砲伝来とあい前後して、同様に火薬を使って打ち上げる花火の技術が本格的に導入されるに至ったのではないかと考えられています。
さて、現在では和製花火などとも呼ばれる昔からの花火技術は、湖北地域の各地に現在も伝えられています。米原市の各所に伝承されている「流星(りゅうせい)」などもその一例で、これは戦陣でののろしによる戦況報告のために開発された技術がそのルーツなのだといいます。
長浜市域では、何と言っても国友町に伝わる「花火陣屋」の存在が挙げられるでしょう。国友では、火薬の技術を応用した花火の製造が幕末の頃からおこなわれているといい、花火陣屋は、花火を打ち上げる際の指揮所としての役割を果たすものとして伝承されているのです。正面に門構えをつくり、三方に幕を張って、その周囲には高張提灯や吹流しが立てられる花火陣屋の姿は、まさに戦場の陣所を思わせる威容があります。長浜市国友町には、東西南北の町内四つの各組ごとに一つずつの陣屋のしつらえが伝承されています。特に西組の所有するの花火陣屋は、最も古いものであることから市の有形民俗文化財に指定されています。また、市域内には、国友以外にも今町や泉町など、この花火陣屋の民俗を有した町がいくつか存在しています。
そして、市域内の花火の民俗をさぐってゆくと、毎年八月十五日の夕刻に長浜八幡宮境内の放生池で催される長浜市指定文化財「蛇の舞(じゃのまい)」が特筆されるでしょう。これは、放生池の弁財天に奉納される舞で、長さ十メートルもの大きな緑の蛇体を、三人の演者が持って生き物の如く舞わせるというものです。この舞は、市内の永久寺町にある「蛇組(じゃぐみ)」の人々によって、その技が伝承されています。蛇組のメンバーは決まった家筋の長男にのみその継承が許されるという厳格な組織で、例えばその家の子息が幼少の場合は、同姓で本分家関係のある「同家(どうけ)」と呼ばれる家で、これを補うのだそうです。
蛇の舞と蛇組とがいつから始められたのかは定かではありませんが、蛇組に伝えられている蛇を収める木箱の裏蓋には「延享四年」(1747)という墨書名が見られることから、江戸時代中頃にはすでにこの芸能が執り行われていたとも考えられています。
さて、この蛇の舞は三幕の演目からなるのですが、それぞれの幕間などに、花火による演出が随所に盛り込まれるのが特色となっています。これにはいわゆる和製花火が用いられ、かつては蛇組がこの花火の調合も自前で行なっていたのだといいます。蛇の舞を彩る花火の演出も、長浜市域に伝わる花火文化のひとつなのです。
国友町の花火陣屋については、『長浜市史』第三巻「町人の時代」のp478からp479を、また永久寺町の蛇の舞については、『長浜市史』第三巻「町人の時代」のp476からp477と、『長浜市史』第六巻「祭りと行事」のp340からp343を御参照下さい。
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▲花火陣屋の様子
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▲昭和40年代の蛇の舞の様子
(西川浩志氏撮影)
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