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現在の長浜市平方町と地福寺町の地域は、江戸時代には共に平方村と称されていました。平方村では、かんがい用水を付近を流れる中島川からの引水に頼っていましたが、この中島川は楞厳院川の支流で、本流の楞厳院川は宮川村(現・長浜市宮司町)や勝村(現・長浜市勝町)などさらに上流のいくつもの村々が利用していたので、渇水時には水の配分をめぐって村同士がたびたび争うことがありました。特に下流である平方村は、上流の村々に対して常に苦心した対応をとってきたのですが、時には当事者間での解決がままならず、訴訟に発展することもありました。
例えば、文化十四年(1817)に起こったとされる争論では、平方村と宮川村とが中島川の川浚いをめぐって対立したことを発端に、九年間にも及ぶ長期の訴訟となってしまいました。この訴訟で最も難しかったのは、宮川村が彦根藩の領地ではなく、宮川藩堀田家の領地であったことでした。平方村の人びとはより良く水を流すために、楞厳院川から中島川が分かれる分水のある宮川村の領域に踏み込んで川浚え作業を敢行したのですが、ちょうどその場所は宮川藩の陣屋があったため、宮川村側は体面を傷つけられたとして、平方村の作業を阻止してしまったのです。
京都町奉行所を舞台として繰り広げられたこの裁判では、彦根藩と宮川藩との対決という背景も含みながら、長期化してしまいました。当時、彦根藩は、その領地を北筋(天野川以北の地域)・中筋(天野川と犬上川にはさまれた地域)・南筋(犬上川以南の地域)の三つに分割して、それぞれに筋奉行と代官を置いて、きめの細かい治世を展開していましたが、こうした他領との諍いについても、北筋の奉行や代官が少なからず関与したと見られます。
そして、長い裁判の結果、事件には中島川への分水地点を宮川藩陣屋前からさらに下流の位置に付け替えるという、ある意味豪快な判決が下されました。その後平方村では、中島川の川浚いの際には彦根藩の役人に立ち会ってもらって作業をするようになったのです。 |
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