明治4年(1871)11月24日、長浜の北国街道沿いの郡上町にて、金沢藩士同士の刃傷事件が起こりました。討たれたのは金沢藩士多賀賢三郎。討手は同じく金沢藩士で家老本多政均の旧臣芝木喜内、藤江松三郎らでした。多賀殺害の後、芝木・藤江の両名は多賀に同行していた草薙良平らにこの度の刃傷の趣旨を述べ、草薙らはこれを聞くと、即座の殺害を思い止まり、芝木・藤江の身柄を彦根縣の役人に引き渡したといいます。
実はこの事件は、明治2年(1869)8月7日に起こった金沢藩家老本多政均の暗殺に端を発しています。政均は、幕末維新の混乱期にあって、開国か攘夷かで藩論が二分される中、難しい舵取りを余儀なくされていました。政均は時流に乗り遅れまいと懸命な藩政運営を試みますが、それは時に急進的な藩士の反感を買うこととなったのです。そして政均は、金沢城二の丸御殿の廊下で、井口義平、山辺沖太郎らによって暗殺されてしまいます。
本多政均は、金沢藩家老という地位ではあったのですが、その禄高は百万石の前田家にあって五万石を有する大名並みの待遇でした。それ故に政均に仕える家臣の数も多く、主君を討たれた旧臣達は、犯人とその一味の引き渡しを求めて嘆願を繰り返したといいます。しかし、暗殺の実行犯の両名は官憲の手によって処罰されてしまいました。そして、この計画に携わった何名かの藩士は罪を免れ、戊辰戦争終結後は石川縣の官吏となる者も出たのです。その中に多賀賢三郎も含まれていました。
主君政均の復讐を誓った旧臣達は、一味の所在をそれぞれに突き止め、多賀賢三郎を狙ったのが芝木喜内と松江藤三郎らでした。両名は、北国街道の現在の郡上町付近にて多賀賢三郎を討ち取ることに成功し、他の同志達も、それぞれに主君の仇を討っています。しかしながら、見事あだ討ちを為し遂げた本多の旧臣達は、忠義の武士として誉めそやされるどころか、明治の新しい法令によって斬罪に処せられてしまいます。この事件は、日本の武家社会の終焉に当たり武士による"最後のあだ討ち"となりました。
その後、明治6年(1873)2月に敵討禁止令が出され、以後あだ討ちは御法度となります。さて、多賀賢三郎の遺体は、彦根縣の役人による検死の後に荼毘に伏されました。この時、葬儀の読経を勤めたのは北呉服町願養寺の住職長了閑だったといい、遺骨は三ツ矢の梨ノ木墓地に埋葬されました。今も梨ノ木墓地には、多賀賢三郎の墓があり、激動の時代の一端を伝えています。
郡上のあだ討ちに関しては、『長浜市史』の第3巻「町人の時代」の90ページに記載されています。
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▲現在の郡上町
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▲梨ノ木墓地にある
多賀賢三郎の墓
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