毎年1月9日から11日までの3日間、長浜の豊国神社では十日戎が盛大に催され、多くの参拝客でにぎわいます。豊国神社近くの街路には幟や提灯が立てられ、神社の境内には福笹や熊手などの縁起物を売る店が設けられます。にぎやかなえびす囃子が奏でられる中、湖北中から人々が訪れて福笹などを買い求め、餅まきなどに興じます。
そして、10日の本えびすには宝恵駕籠の巡行が行われます。宝恵駕籠には晴れ着姿の娘さん達が乗りますが、かつては「芸豊連」と呼ばれた長浜の芸妓さんが乗っていたのだといいます。宝恵駕籠の行列は、福娘やえべっさんの乗った鯛車らと共に商店街などを練り歩くのです。
さて、元々の豊国神社のえびす祭りは、正月と10月のそれぞれ20日に催されていましたが、明治31年(1898)に行われた豊太閤三百年祭を契機に2月と11月に開催月が変わりました。その後は、特に11月20日のえびす祭りが長浜のまちの年中行事の最後を飾るものとしてにぎわうようになり、商店街では「えびす講」と称して大売出しが行われました。昭和時代の長浜のえびす講は、湖北一円から人々が繰り出し、大変な盛況であったといいます。
一方、2月のえびす祭りは、寒い時期でもあり人出も少なく寂しいものであったそうで、昭和初期には、全国各地で催されている十日戎に合わせて、祭日が1月10日に変更されました。そして、昭和41年(1966)には商店街などが中心となって、宝恵駕籠の行列など現在のような祭礼の様相が整えられ、次第に活況を帯びるようになったのです。
ところで、十日戎は京都や大阪など各地で催されていますが、祭祀の対象となるのは、大体「えべっさん」こと恵比寿神社であるものと決まっています。では、何故長浜の場合は豊臣秀吉を祀る豊国神社で十日戎が催されるのでしょうか。
実は、豊国神社という社号は大正9年(1920)から称されたもので、その前は同社は「豊(みのり)神社」という名前で呼ばれていました。しかもその豊神社という名前も明治維新以降の称号で、江戸時代には「蛭子(えびす)神社」として崇拝されていたのです。蛭子神社が何故豊国神社となったのでしょうか。それは蛭子神社創設の経緯に秘密があります。
長浜のまちは、秀吉が長浜城を築城した際に一緒に建設したもので、そこから町場の発展が始まりました。そうした訳で、長浜の町衆はまちの礎をつくってくれた太閤秀吉に対して深い敬愛の念を持っていましたが、江戸時代になり徳川氏の世の中になると、豊臣家や秀吉のことを表立って崇拝することはさすがにはばかられました。
そこで、長浜のまちの人々は思案をめぐらしました。寛政4年(1729)11月に、長浜八幡宮の御旅所が建てられたのを契機にその一角に堂を建て、翌年には長浜八幡宮にあった蛭子神をここに遷して蛭子社を勧請したのです。実は、その蛭子社は表の神様で、その奥には秀吉が祀られていたのです。こうして長浜の町衆は、表向きは蛭子社にお参りしながら、実は奥にいらっしゃる秀吉さんに手を合わせていたのです。
そして、明治維新を迎えて徳川の世が終わり、太閤秀吉への信仰心を隠す必要がなくなると、蛭子社は豊国神社となりました。しかし、長浜の人々は、長年お祀りしてきた蛭子神への信心もそのままに、現在もえびす祭りを催しているのです。
豊国神社にまつわる歴史等については、『長浜市史』第3巻「町人の時代」のp380〜381や、『長浜市史』第4巻「市民の台頭」のp442、『長浜市史』第6巻「祭りと行事」のp117〜128、そして『長浜市史』第7巻「地域文化財」のp208〜209などに詳しく記されていますので、あわせてお読み下さい。
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