石田三成は、永禄3年(1560)に坂田郡石田村(現・長浜市石田町)で、在地の土豪石田正継の次男として生まれたといわれています。その頃の湖北は、浅井氏の勢力が伸長していましたが、近隣国の美濃や尾張では、織田信長の台頭によって時勢が大きく動こうとしていました。そして、元亀元年(1570)の姉川の戦いと、その後の浅井氏の滅亡によって湖北をめぐる時代の趨勢も移り変わり、三成の運命もまた大きく開かれてゆくのです。
浅井氏滅亡の後、信長の命を受けて湖北を統治したのは羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)でした。秀吉は長浜城を築城して新たな国づくりに着手してゆくのですが、そこで三成は羽柴秀吉にその才覚を見出されてゆくことになります。三成は秀吉の帷幕にあって次第に活躍の場を広げてゆき、殊に天正10年(1582)に織田信長が本能寺の変で最期を遂げて以降は、次なる天下の覇権を狙う秀吉を支えて賤ヶ岳の戦い(1583)や小牧長久手の戦い(1584)などを戦い抜き、秀吉の天下統一事業推進に尽力してゆきます。そして、天正13年(1585)、秀吉が関白となって天下人としてその地位を固めた時には、三成も従五位下治部少輔に叙任されるのです。その後も三成は、九州での島津氏との戦いや関東の北条氏との戦いに臨む一方で、豊臣政権の基盤整備に力を尽くしてゆきます。
石田三成が再度湖北と深く関わるようになるのは、佐和山城主となった文禄4年(1595)頃からです。この年は秀吉の甥で後継者と目されていた関白秀次が高野山で自刃に追い込まれた年で、豊臣政権内部で大きな構造改革が行なわれていました。佐和山城を得た三成は、次代を担う政権のリーダとして次第に頭角をあらわしていったのです。三成は知行する村々に掟を発行し、きめ細かい民政に着手しています。三成の出した九カ条あるいは十三カ条からなる掟書は数点が現存し、為政者としての彼の性格を垣間見させます。
石田三成という武将には、湖北の地との深いゆかりがあります。それは、一つには三成を輩出した石田一族の根拠地が、現在の長浜市石田町付近にあったことによりますが、さらには、三成がその所領として得た地域が、湖北にもあったということ、そしてもう一つ、関ヶ原で敗れた三成が、山中を逃れて最後にたどり着いたのがこの湖北であったことです。
長浜市石田町には、石田氏の屋敷跡と推定される場所や、三成の産湯に使われたという井戸の跡などがあり、また「治部」という三成にゆかりがあると思われる小字名も残されています。町内には石田三成の出生地の碑などが建てられています。そして、石田町の八幡神社の背後には、石田一族の供養塔が祀られています。昭和になって建てられた供養塔の周囲には、徳川家の追及を恐れて破壊された石田氏ゆかりのものという五輪塔の残欠が数多く祀られています。
石田三成の事績については、『長浜市史』第2巻「秀吉の登場」のp393〜400などに詳説されています。また、石田町の石田三成関連史跡については、『長浜市史』第7巻「地域文化財」のp386〜388などに詳しく記されていますので、ご参照下さい。
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