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▲長浜八幡宮に建つ「濱縮緬創製記念碑」 |
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▲難波町に建てられた「浜ちりめん発祥の地」碑 |
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浜縮緬は、湖北・長浜を代表する絹織物として、長くこの地域の経済を支えてきました。縮緬の製造技法は、戦国時代の天正年間(1573-92)に大陸から渡来した明国の人々によって堺の織匠に教授さられたのが日本におけるはじめと言われていますが、その後江戸時代に入ると、縮緬を織る技術は京都の西陣を経て丹後や岐阜、そして長浜へと伝えられていったようです。
湖北・長浜での縮緬製造の創始については、難波村(現・長浜市難波町)の林助と庄九郎がこれを始めたのだという史料が残されています。その内容は、たびたび水害に見舞われて年貢米にも困窮していた難波村の人々に、林助と庄九郎の二人が縮緬織りの講習を受けさせて農家の余業としたというもので、その事情は宝暦2年(1752)12月付の「願書」の雛形などによりうかがうことができます。この史料には「私ども少高の者故、渡世難儀仕り候につき、右の者ども冬春の内、折々雇い、縮緬織り申す筋道、妻子どもに指南請け習わせ、縮緬織り出し、渡世のために仕りたく願い奉り候」との一文が見えるのです。
林助と庄九郎が記した「願書」は、彦根藩に対して提出された文書の下書きであろうかと思われますが、この「願書」が書かれた前後には、織物の一大消費地であった京都において、織物をめぐる大きな問題が起こっています。当時の京都は、西陣を中心とした絹織物の産地であり、そして「京の着だおれ」などと称されるほどの高級織物の購買層がありました。この京都の地で、延享元年(1744)に縮緬や紗綾などで、京都以外で織られた高級織物、いわゆる「田舎織物」の移入を制限する命令が下ったのです。これは、地元の産業を振興する立場の京都町奉行所が下したものでしたが、この結果、林助と庄九郎が主導した縮緬織物は、その最大の販売先を奪われる事となってしまったのです。
そこで、林助と庄九郎は宝暦5年(1755)に、京都での販売許可を得るための工作を彦根藩に願い出ます。そこには「京都へ指し登し、売買仕り候処、相応の利潤も御座候」ことや「然る処、四年以前、京都西陣表より御願い下され」たこと、そして「御領分中縮緬屋十五軒、機数二十にて御座候、一カ年漸く縮緬織り高七百疋ばかり」と、当時の生産状況に関する数値などが書き連ねられています。この訴えを受けて彦根藩は、織り上げた縮緬を年貢として受け、これを彦根藩の御用商人を通じて京都で販売させるという策を打ち出したのです。こうすれば、彦根藩は年貢を換金するという名目で京都で縮緬を売り捌ける訳で、地元には京都での販路が確保され、しかも彦根藩には縮緬の売上による収益がもたらされるという利点がありました。
こうして、縮緬の販売に乗り出した彦根藩は、宝暦10年(1760)正月、販売にかかる管理と手数料などの規定を定め、各織屋を統制する役職として「織元」を置き、これに林助と庄九郎の二人を任命したのです。この後、湖北で縮緬の生産に携わる者には鑑札が発行されました。
この宝暦年間の縮緬をめぐる騒動は、湖北長浜で織られた縮緬が、それ以前から京都での一定の販路を持っていた事を物語っています。最初に紹介した宝暦2年の史料についても、これが雛形しか残っていない事などから、宝暦5年の彦根藩との折衝の過程で記されたものではないかとの見解もあります。
浜縮緬の黎明期の歴史については、『長浜市史』第3巻「町人の時代」の203ページから212ページに詳しく記載されています。どうぞ御参照ください。
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▲縮緬の鑑札「誂機株礼」 |
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