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平成23年10月1日号

[2011年10月19日]

ID:199

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国指定史跡「小谷山城-戦国大名浅井氏の居城-」

  • 指定日:昭和12年4月17日(平成7年2月14日追加指定)
  • 所在地:長浜市湖北町伊部、小谷郡上町ほか
小谷山
小谷城跡絵図
小谷城地図

小谷城は、湖北平野の北部、標高495メートルの急峻な小谷山に築かれた戦国時代屈指の山城です。

北近江の守護大名京極氏の被官※であった浅井亮政らが大永3年(1523)京極氏の内乱に乗じて国人一揆を起こしたことがきっかけで、亮政が次第に主導権を握り江北を支配していきました。小谷城はこの頃築城されたと考えられます。『長亨年後畿内兵乱記』に「大永5年(1525)。(六角)定頼公は浅井の城大嶽へ出陣。※現代語に改めています」と書かれていることから、初期の小谷城は現在本丸と呼ばれているところではなく、小谷山最高峰の大嶽に築かれたことが知られます。その後、大嶽から南に延びる尾根上に本城が移され、天正元年(1573)9月1日に落城するまで浅井亮政、久政、長政の三代約50年間にわたって本拠となりしました。

小谷城の遺構は、小谷山最大の谷、清水谷とその両側の尾根および大嶽にあります。その構造は、山王丸、本丸(鐘丸)を中心とする山上の主郭と、浅井氏の館や家臣団の屋敷のあった清水谷、これらを守るように配された出丸、金吾丸、大嶽城、月所丸、焼尾丸、福寿丸、山崎丸の独立した砦からなり、石垣や土塁、1100か所を超える曲輪で守りを固めた堅固な城です。その規模から全国屈指の山城と言われています。

築城以来、少しずつその形を整えていったと考えられますが、特に織田信長との激しい戦いに備え大きく整備していったと考えられます。信長による幾度の小谷城攻めに耐えましたが、天正元年9月1日ついに落城しました。

最後に、浅井長政の子ども「万菊丸」について紹介します。浅井長政とお市の方には万福丸、茶々、初、江の子どもたちがいました(万福丸については諸説があります)。万福丸、茶々、初、江の生涯については皆さんご存じでしょう。実は、長政にはもう一人男子がいたと言われています。湖北町二俣の中島家に伝わる伝説を紹介しましょう。

万菊丸と呼ばれるその子は、小谷城落城当時まだ乳飲み子でした。長政は万菊丸を家臣の中島左近と小川伝四郎、乳母に託しました。中島左近らに守られた万菊丸は、小谷城を脱出し菅浦の安相寺(長浜市西浅井町菅浦)にかくまわれました。夜半、密かに船で菅浦から琵琶湖を渡り福田寺(米原市)に入り命を永らえました。やがて出家し住職覚芸の養子となり、第12世正芸となったということです。真相はわかりませんが小谷城の麓で永く大切に伝えられたお話です。

※被官…時代によって違いますが、戦国時代では守護などの家臣となった土豪

(『広報ながはま』平成23年10月1日号より)

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