ユネスコ世界の記憶「雨森芳洲関係資料」
[2018年11月9日]
ID:2937
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雨森村(現長浜市高月町雨森)出身と伝える雨森芳洲(1668年から1755年)は、江戸時代中期、対馬藩(現長崎県対馬市)に仕えた儒学者です。藩の教育のほか、朝鮮外交などにあたりました。
朝鮮通信使来日の際にはその随行儒者として、正徳元年(1711年)の第8次と、享保3年(1718年)の第9次の通信使に同行し活躍しました。
自らの経験から、朝鮮外交の指針書「交隣提醒(こうりんていせい)」を著し、国際関係における文化の相互理解や、「誠信の交わり」を説くなど、日本と朝鮮の善隣外交に顕著な業績を残しました。
「世界の記憶」は、危機に瀕した歴史的な記録物を、最新のデジタル技術を駆使して保全し、研究者や一般の方々に広く公開することを目的としています。
古文書や書物、楽譜、絵画、フィルムなどの記録資料が対象となり、現在世界中で348件が登録されています。
海外
日本国内
文化的価値を測る絶対的基準は存在しないため、比較に基づく相対的な審査が行われ、これまでに認可、不認可となった他の推薦案件との関係も考慮されます。
平成24年、縁地連全国交流会釜山大会で、韓国の釜山(ぷさん)文化財団より、「朝鮮通信使に関する資料」の日韓両国によるユネスコ共同登録推進が提案されました。
平成26年5月、縁地連内に「朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産日本推進部会」、翌6月、「朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産日本学術委員会」が設立されました。
その後、10回を超える日韓合同推進会議・共同学術会議等を経て、昨年3月、「朝鮮通信使に関する記録(17から19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史)」(資料合計111件333点)がユネスコ委員会へ登録申請されました。
日韓学術委員会の様子
将軍の代替わりの祝賀などの目的で、慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)までの約200年間に12回来日しました。通信使一行は毎回300から500人で構成され、釜山から大坂までは海路、そこから江戸までは陸路をとりました。
異国の文化を迎え、それを見物し、彼らと交流することは、わが国にとって江戸時代きっての国際的イベントで、通信使一行は武士階級のみならず、文人や一般民衆からも大歓迎されました。
海外事情に乏しかった当時の日本人にとって、鮮やかで見慣れぬ衣裳・風体、鼓膜と心を刺激する楽器の音色など、異国の文化使節団を目のあたりにすることは、カルチャーショックそのものだったことでしょう。通信使を迎え、彼らと交流した記録は、九州から江戸にかけて、各地に残されています。
朝鮮通信使は、両国の平和的な関係を構築し、維持させることに大きく貢献しました。朝鮮通信使が往来する両国の人々の憎しみや誤解を解き、相互理解を深めたことにより、両国は外交のみならず学術・芸術・産業・文化などのさまざまな分野において、活発に交流することができたのです。その根底には、雨森芳洲が説いた「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、誠信である」という、誠意と信義を重んじた「誠信交隣」の精神が流れていたのです。
この度、「世界の記憶」に登録申請されている資料は、「外交記録」、「旅程の記録」、「文化交流の記録」のジャンルで構成され、芳洲会所蔵の「雨森芳洲関係資料」(雨森芳洲の子孫から芳洲会へ寄贈された資料群)がこれに含まれます。
朝鮮通信使絵巻
朝鮮通信使行程図
瓦人形(近江八幡市蔵)
当時の鬼瓦作りの職人が制作したもので、宝暦14年(1764年)の第11回通信使をモデルとしていると考えられる。
設立総会の様子
「雨森芳洲が長年の朝鮮関係の仕事を総括し、藩主への提言としてまとめた書物「交隣提醒」の中で最も強調しているのが「誠信の交わり」の大切さです。「誠信と申し候は、実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わり候を、誠信とは申し候」これこそが彼が後世に残した最大の遺産であり、まさに今日の国際社会がめざす未来の指針です。長浜の皆さんが郷土の先人の思いを受け継ぎ、伝えていくことは大変意義深く、今後の地域づくりの大きな力となることでしょう。
富永小学校で毎年行われている芳洲子どもミュージカル
長浜城歴史博物館での特別展
関係団体を招いてのシンポジウム
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