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わたしたちの市の歩み

歴史に残る人や文化財

西野恵荘にしのえしょう(1778~1849)

長浜市高月町西野には、余呉川の氾濫から村を守るために掘られたトンネル「西野水道」があります。現在、滋賀県指定文化財に指定され、地域の人々の手によって整備保全されています。 「西野水道」を掘る工事を中心になって進めた人物が、「西野恵荘」。なぜ、この「西野水道」が掘られたのでしょうか。また、どのような苦労があって完成したのでしょうか。

西野と西野恵荘

西野は長浜市高月町西部の西山の麓、余呉川が琵琶湖にそそぐ所にあって、北と西には山があり、その山に囲まれた低地に位置しています。
以下は、西野水道が完成する前の、西野の様子です。

余呉川の 氾濫水はことごとくこの西野の低地に流れ込み、たまってしまう。 大雨が降ると堤防の低い余呉川はすぐに氾濫し70ヘクタールの農地は、たちまち湖のようになる。人家の床上浸水はたびたびで、道には川のように水が流れる。 となり村との往き来は危険でできない。ただ水がひくのをじっと待つより他に方法がない。

幼い頃から洪水による苦難を体験していた西野の充満寺じゅうまんじ住職の恵荘は、村を救うにはトンネルを掘り、氾濫水を琵琶湖に放水するしか手段はないと考えました。
そこで、山に長さ250mの排水用トンネルを掘ることを提案し、天保11年(1840)7月29日、トンネル掘り工事を着工しました。

西野水道が完成


西野恵荘肖像画(充満寺所蔵)

固い岩盤を掘るために、能登、伊勢から石工を招いたり、村人も作業を手伝ったりしながら進めましたが、工事は苦難の連続でした。 1275両という大金もかかりましたが、西野恵荘は信念を曲げることなく、完成までしんぼう強く力を尽くしました。 ノミを用いて掘りぬかれたトンネルは、5年間の工事により、弘化2年(1845)についに完成し、人々は長年の洪水の被害から解放されました。
当時のままの西野水道は、現在、滋賀県指定文化財になっています。高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mのトンネルです。

教科書との関連

  • 小学社会6年上86頁「江戸時代の社会と文化・学問」《人々のくらしのようす》(日本文教出版)
  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)126頁《第4編「近世の日本」③百姓・町人と産業の発達》

参考資料

  • 「高月の人物ものがたり」高月町教育委員会
  • 「西野水道」高月観音の里歴史民俗資料館
  • 「観音の里高月」高月町観光協会