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わたしたちの市の歩み

歴史に残る人や文化財

豊島作右衛門としまさくえもん (1564~1643)

神田溜かんだだめ は、長浜市加田町に所在するため池です。北陸自動車道の神田パーキングエリア北西に広がり、約2.8ヘクタールの広さがあります。
この池は、豊島作右衛門によって造成されたと伝えられています。豊島作右衛門とはどんな人物だったのでしょうか。溜池にまつわる言い伝えとは?

豊島作右衛門とはどんな人物か?

豊島作右衛門は、名を忠次ただつぐ といい、永禄7年(1564年)に生まれました。 豊島氏は武蔵国 豊島郡としまぐん(現:東京都豊島区付近)を本拠とする関東武士でした。 その流れをくむ作右衛門は、天正19年(1591)に徳川家康に仕え、200石を与えられました。
その後、彼が北近江の幕府直轄領ちょっかつりょう代官として赴任したのは、関ヶ原合戦の慶長6年(1601)頃であり、大坂の陣が始まる慶長19年(1614)まで、この地で活動していたと見られます。北近江に残された十数通の文書で見ると、作右衛門は年貢の収納や、琵琶湖の船の管理,河川の修造しゅうぞう、それに国友鉄砲の納品など、多くの仕事に関与していました。
現在、加田町には、豊島作右衛門が出した年貢請取状が2通残っているほか、慶長11年(1606)に提出した田畑の面積や石高の書状があり、それらから作右衛門が加田村の代官であったことがわかります。
作右衛門は近江を離れたあと、伊豆諸島の八丈島の代官になっています。八丈島に島流しにあったとの言い伝えもありますが、江戸時代の八丈島といえば,流刑地として有名なため、そんな連想から作右衛門が八丈島に追放されたという話が作り上げられました。作右衛門は、寛永20年(1643)に80歳で亡くなっています。

神田溜にまつわる言い伝えとは?

神田溜は、豊島作右衛門がこの地に干ばつの被害が多いことを憂い、加田村や近在の農民を集めて造ったと伝えられ、別名、豊島池としまいけと呼ばれていますが、作右衛門が神田溜を造ったことを示す文書は、残念ながら現在のところ見つかっていません。
地元では、作右衛門がため池を造ったという言い伝えのほか、勝手にため池を造成したので、上司の奉行からおとがめを受け、加田の地を追放されたとの話も伝わっています。しかし、これは誤伝ごでんとも言われています。
 その後、作右衛門がどうなったかは伝えられていませんが、加田村には度々災いが起こりました。これは作右衛門の怨霊だとされて明治35年には、亀岡山の上に記念碑がたてられ、昭和50年秋に豊島神社がこの池の端に建てられました。