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わたしたちの市の歩み

歴史に残る人や文化財

冨田八郎(1876~1947)

旧伊香郡の産業発展のため尽力した人物の一人、冨田八郎。その生涯は、どのようなものだったのでしょうか。

冨田八郎の生涯と功績

明治9年(1876年)、旧坂田郡伊吹村上野(現在の米原市上野)で生まれ、幼い頃に木之本町木之本の冨田忠利の養子に迎えらました。
養父の忠利は、明治5年に学制がしかれるとすぐに小学校を開いたり、災害にあったときに人々が助け合える「伊香相救社」の運営に力を入れたり、 資金を貸し出す融通会社(後の江北こほく銀行)を設立したりするなど地域のために力を尽くした人でした。そんな養父の影響を受けて、八郎もまた地域の発展のために努力しました。
冨田家は代々酒造業を営んでおり、酒の品種改良に努めて銘酒を造り上げるとともに、同業者にも呼びかけて旧伊香郡の酒の品質(ひんしつ)を高め、発展に努めました。
また、若くして郡会議員、県会議員となり、さらに衆議院議員としても活躍(かつやく)しました。中でも、県南部に遅れをとらないようにと湖周道路の開発運動に携わりました。 大音坂(旧賤ヶ岳トンネル)、岩熊やのくま坂(今の岩熊トンネル)などのトンネルも16年の年月がかかりましたが、この当時に完成し、木之本から高島市マキノ町海津までの道路も開通しました。
このほかに、大正4年(1915)7月、愛郷あいきょう会長として伊香病院(今の市立湖北病院)を設立し、大正8年(1919)木之本町長在職時、木之本実科高等女学校(今の県立伊香高校)の設立にも力を尽くしました。
昭和22年(1947)、71才で亡くなりましたが、旧伊香郡葬いかぐんそうとして、多くの人が別れを惜しみました。 八郎の努力は、道路や福祉、教育など多くの面で今の人々の生活につながっています。

教科書との関連

  • 小学社会6年上126頁~「国力の充実をめざす日本と国際社会」《明治・大正時代を生きた人々》(日本文教出版)
  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)《第5編「近代の日本と世界」⑥資本主義の発展と社会問題》

参考資料

  • 改訂「ふるさと伊香」昭和55年3月31日 滋賀県伊香郡社会科研究会