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主な展示資料
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第1章 北近江の戦国大名 浅井氏   
 浅井氏は、室町時代後期、亮政、久政、長政のおよそ50年にわたって北近江を支配した戦国大名です。ここでは、三代目・浅井長政ゆかりの資料を中心にその人物像に迫ります。
 
“素晴らしい鮭をありがとう。感謝いたします。”   
 
浅井長政書状 浅見新右衛門尉宛 1幅 (年不詳) 9月11日付 大阪城天守閣蔵

 浅井長政が家臣の浅見新右衛門尉から鮭を贈られたことに対して礼を述べたもの。
「驚目賞翫(きょうもくしょうがん)申し測(はか)りなく候」(目を見張るほどの素晴らしさで、言葉にできないほど美味でした)と、感謝の気持ちを素直に表している。家臣に宛てた礼状であるが、非常に丁寧な文面で、長政の人柄を垣間見ることができる。浅見新右衛門尉はもと京極家家臣で、後に浅井家に仕え、浅井家滅亡後は宮部継潤に仕えたとされる。
 
第2章 越前の戦国大名 朝倉氏   
朝倉氏は、南北朝時代に越前守護斯波(しば)氏に従って越前に入りました。応仁の乱でめざましい活躍を見せた朝倉孝景(英林)は主家斯波氏から越前の支配権を奪取し、一乗谷に城を構え、戦国大名としての礎を築きました。以降、5代にわたって越前を統治しました。ここでは朝倉家と本拠地・一乗谷ゆかりの資料を紹介します。
 
“戦国大名朝倉氏最後の当主・義景像” 
重要文化財 朝倉義景像 
心月寺蔵(福井市立郷土歴史博物館寄託) 1幅
天正元年(1573)賛

 越前の戦国大名・朝倉義景の肖像画で、 有髪(うはつ)僧形(法体像)で描かれている。義景は一乗谷を本拠にして栄華を誇ったが、織田信長と対立。姉川合戦では出陣せず、一族の朝倉景健(かげたけ)を差し向けた。本像は、はじめ富山県の光厳寺(こうごんじ)に伝来したが、後にかつて一乗谷にあった菩提寺・心月寺に寄進された。賛は心月寺第9世観渓純察によるもので、義景の自刃した天正元年(1573)仲秋令有日の年記がある。

   
第3章 姉川合戦から小谷落城へ   
元亀年間(1570~1573)に越前、近江の国を中心として繰り広げられた“元亀争乱”を様々な資料から紹介します。
 
“姉川合戦を描いた唯一の屏風絵” 
 
 姉川合戦図屏風 1隻 天保8年(1837) 福井県立歴史博物館蔵

  元亀元年(1570)6月28日、北近江の姉川河原において行われた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の激闘を描いた現存唯一の屏風。屏風の左側には徳川家康の本陣、右から朝倉軍が攻めかかる様子が描かれる。この屏風は、宝永2年(1705)に家康前半期における4つの戦いを徳川方の立場でまとめた『四戦紀聞』の中の「江州姉川戦記」の記述をもとに、天保8年(1837)に林義親によって描かれたという。5尺3寸(約160cm)の大太刀を振るって奮戦した朝倉家の家臣・真柄十郎左衛門の勇姿や、「姉川七本槍」の活躍など、合戦場における武将たちの姿が緻密かつ力強く表現される。
 
“浅井長政が姉川合戦のあと、志賀の陣において
京都の寺に送った文書を寺外初公開!”
 
浅井長政書状 大原来迎院宛 元亀元年(1570)11月12日付 1通 京都 勝林院蔵

 浅井長政が姉川合戦から5カ月後に京都の寺に送った安堵状。安堵状とは幕府や領主が支配下にある寺院などに対し、領地を保証するために発行するもので、本資料には滋賀郡内にある大原来迎院の寺領について、「領知異義あるべからず候」と記されている。長政が姉川合戦後も比叡山周辺に影響力を持ち、織田信長にとって脅威となっていたことを裏付ける貴重な資料といえる。
 令和2年(2020)年夏、京都市左京区の寺院・勝林院で新発見された資料で、今回の企画展において寺外初公開となる。
 
 
 
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