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主な展示資料

 
在りし日の姿を偲ぶ石田三成の肖像画   
 石田三成の最も古い肖像画は、江戸時代前期に模写された津軽藩士・杉山家に伝来したものです。江戸時代に描かれた三成の肖像画として現存唯一のものであり、その容貌を忠実に伝えています。このほかにも、杉山家に伝わった三成像を模写した石田三成公事蹟顕彰会所蔵のものや、明治40年(1907)に大徳寺三玄院の三成墓所から発掘された頭蓋骨の復顔をもとに、昭和55年(1980)に描かれた肖像画(本館蔵)などが存在します。
 本展では、3点の肖像画(一部複製)を前期と後期に分けて展示します。在りし日の三成の姿を偲ぶとともに、それぞれの肖像画を比べながらご覧ください。
 
 
 (▲石田三成像 部分)
3.石田三成像 前田幹雄(まえだみきお)画 1幅 絹本著色 昭和55年(1980) 本館蔵
 石田三成の肖像画。明治40年(1907)に大徳寺三玄院の三成墓所から遺骨が発掘され、さらに昭和51年(1976)には遺骨の写真やデータによる復顔が行われ、その成果をもとに制作された肖像画である。昭和に描かれたものであるが、科学的根拠に基づいて制作されており、在りし日の三成の容貌をうかがうことができる。
 
為政者としての三成を知る掟書(おきてがき)   
 三成は佐和山城主として領内の湖北4郡(犬上・坂田・浅井・伊香郡)に対して13ヵ条と9ヵ条の掟書を出しており、現在、20点近くの掟書が残っています。この掟書は、農村で生活して年貢を納める百姓を把握し、その権利と義務を明確化することを目的としていました。13ヵ条と9ヵ条のそれぞれの掟書の内容に大差はなく、前者は三成の直接支配地に、後者は三成家臣の所領に出されました。三成の掟書は、当時の他の大名に比べてかなり長文で、年貢の納め方などの内容もきめ細やかなものとなっており、三成がいかに領内の村々の実情を熟知していたのかがわかります。領主として優れた手腕を発揮した三成の姿をうかがうことができる掟書にぜひご注目ください。
 
 
30.石田三成十三ヶ条村掟(じゅうさんかじょうむらおきて)  多和田村(たわだむら)宛
   1面 紙本墨書 文禄5年(1596) 個人蔵
  三成が多和田村(米原市)に出した13ヵ条の掟書。9ヵ条の掟書が村の軒数を基準に人夫(にんぷ)の差し出しを命じているのに対し、13ヵ条の掟書は、石高(こくだか)を基準に人夫の差し出しを規定している。また、第1条の最後に三成の黒印が押されているのが特徴である。
 
 
 33.石田三成麦掟(むぎおきて) 上八木村(かみやぎむら)百姓中宛 1幅
    紙本墨書 慶長2年(1597) 個人蔵

 田に植えた裏作の麦の収穫のうち、3分の1を年貢として上納するよう定めた掟書。麦を植えない田は対象外で、そのほかもともと畑である場所や屋敷周辺の畑に植えた麦は年貢の対象としないことも記されている。三成が麦の裏作の実態も知るほど村の実情に通じていたことがわかる。
 
 
関ヶ原合戦直前の緊張感が伝わる三成判物(はんもつ)
慶長3年(1598)の秀吉没後、豊臣政権は五大老と五奉行による合議制によって運営されました。しかし、五大老のひとりであった徳川家康は規則違反の身勝手な行動をとるようになり、三成はこれを激しく叱責しました。そして慶長5年(1600)7月には三奉行(長束正家(なつかまさいえ)、増田長盛(ましたながもり)、前田玄以(まえだげんい))の名で「内府ちかい(ちがい)の条々」という家康の弾劾状が諸大名に出され、家康に対する事実上の宣戦布告を行いました。 
 弾劾状が出されたのち、三成は保護を行っていた国友鉄砲鍛冶に対して新たな契約による鉄砲の製作を禁止する文書を出しています。家康との戦いを前に鉄砲鍛冶の統制を図る必要があったと考えられ、関ヶ原合戦前の緊迫した状況を知ることができます。
 
 
35.石田三成判物 宛名切断 1通 紙本墨書 慶長5年(1600) 個人蔵
 関ヶ原合戦直前の7月28日に三成が新たな国友鉄砲の製作を禁止し、天正3年(1575)に秀吉が定めた法度に従うように命じた文書。同月に徳川家康に対して宣戦布告を行ったことと連動した動きだと考えられる。天下分け目の戦い直前の緊迫した様子が伝わる資料である。
 
 
 
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