春は桜の季節です。長浜城歴史博物館の建つ豊公園も、毎年春には満開の桜で埋め尽くされる市内きっての桜の名所ですが、この季節、街角のあちらこちらで桜が花を咲かせる様子を目にします。長浜市内には豊公園の他にも数々の桜の名所がありますが、そんな中から今回は、今はもう失われてしまった"幻の桜の名所"を、『長浜市史』の記述の中から紹介しましょう。
その場所の名は「さくら道」といいます。場所はといっても長大で、現在の地福寺町から四ツ塚町をぬけて室町へとつづく道が、かつてその名で呼ばれていたようです。「さくら道」とは、文字通り桜の木々が道沿いに植えられた桜並木のあったところからつけられた呼称で、春になると満開の桜が人びとの目を、そして心を愉しませたのだといいます。
現在は長浜四ツ塚線などとも呼称されるこの道に桜を植えたのは、明治時代の実業家柴田源七(1835−1899)でした。柴田源七は、明治3年(1870)に滋賀県でもいちはやく製糸会社を興して海外輸出に耐えうる良質な生糸の生産を開始したのをはじめとして、長浜生糸改会社を設立し、明治10年(1877)には第二十一国立銀行開業の発起人となり、同行の頭取に就任しました。また、明治12年(1879)の第1回県会議員選挙において滋賀県議会議員に選出されるなど、柴田源七は湖北を中心に明治時代初期の滋賀県の政財界をリードする人物だったのです。
柴田源七は、自宅のある室町から旧六荘村役場付近(現・長浜市勝町)までの道の南側に桜を植えて並木道としたのですが、いつのころからか人びとはこの道を「さくら道」と呼ぶようになったのだそうです。その後、昭和7年(1932)には地福寺町の地先まで桜の植樹がなされ、「さくら道」の桜は地元の青年団などが中心となって手入れをしていたのだといいますが、敗戦後はこれも滞りがちとなり、桜の寿命もあってか現在ではほぼ全ての桜が枯れてしまい、道路周辺の景観も変わってしまったため、往時の面影を偲ぶものはありません。
ただ面白い事に、昭和61年(1986)から建設の始まった長浜新川に架かる橋で、ちょうどこの「さくら道」に当たるものの橋には"さくら橋"の名前が与えられており、その欄干には「さくらばし」の文字が刻まれています。明治の実業家柴田源七の地元への想いと桜とは、桜並木が失われた後も、新たな時代の建造物の名称として受け継がれているのです。
「柴田源七」の事績については、『長浜市史 第4巻・市民の台頭』のp51からp60までを、また「さくら道」については、『長浜市史
第7巻・地域文化財』のp265からp267までをご参照下さい。
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