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▲成田思斎『養蚕絹篩』より「縮緬織図」 |
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▲力織機を導入した縮緬工場の様子(大正時代) |
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江戸時代中期にその製造が始まった湖北の縮緬産業は、彦根藩の保護と統制の下で自力を貯えてゆくのですが、明治維新を経ると新たな局面を迎えることとなります。
江戸時代後期の彦根藩政下では、縮緬の販売は藩の設置した「国産方」と呼ばれる役所を通じておこなわれていました。当時、日本全国の諸藩では、米による年貢以外の収入源を確保するために特産物の製造等を奨励していましたが、彦根藩でもこれを取り入れ、寛政11年(1799)に藩の国産専売政策の統括機関として、彦根城下にこの国産方(産物方あるいは産物役所とも称した)を開設し、縮緬などの製造と販売を統制したのです。また同年正月には「諸国産物取捌法」を定め、領内の産物の取り締まりを強化しました。こうした取り締まりの背景には、軌道に乗った湖北の縮緬業者の中に、さらなる利潤を求めて彦根藩の織元や代官の統制を受けずに製品を流通させようとする「印抜縮緬」の動きがあったことがうかがわれます。
彦根藩による縮緬の統制は、安政3年(1856)に諸色産物会所が長浜町内に設立された事でさらに強化されますが、幕末維新の政情不安、特に万延元年(1860)3月に藩主であり幕府大老の井伊直弼が桜田門外の変で討たれ、彦根藩が減封などの処分を受けた事によって、その統制も混乱してしまうのです。そして明治維新をむかえ、彦根藩による統制が霧散すると、長浜の商人たちは湖北の縮緬を持って商魂たくましく諸国へとその販路を広げてゆくのです。中には縮緬の海外での販売を目論む商人も現われました。それが浅見又蔵です。彼は明治期の長浜の政財界に大きな足跡を残した人物ですが、明治11年(1878)頃に、柴田源七と共同で申請した起立商工会社ニューヨーク支社で縮緬などの取引をおこない、若干の利益を得たといわれています。
明治維新以降、縮緬業の実質的な自由化によってその生産量は増加し、また一方で明治19年(1886)の近江縮緬絹縮業組合(明治21年に近江縮緬業組合、さらに明治31年に浜縮緬同業組合と改称)の設立によって厳正な品質管理がおこなわれたため、縮緬の販売は安定しました。また、滋賀県も縮緬産業の育成に乗り出し、明治44年(1911)には長浜などに工業試験場(現・滋賀県東北部工業技術センター)を設立し、技術の指導などをおこなってゆきました。
何よりも近代以降の縮緬業の最大の変化は、その生産が手織機から動力を用いる力織機に変わり、それに伴って工場化が進み、生産量・生産額が増大して経営規模が拡大していったことが挙げられます。明治時代に入っても、縮緬の製造はしばらくは前近代と同様に零細な家内工業の形態を維持していました。例えば明治44年の『工業通覧』をひもとくと、長浜町には10戸の縮緬製造業者があり、その機の総数は29台、職工は29人でした。平均すると1軒あたりの業者が3台前後の機を持ち3人程度の職工で仕事をしていた事になります。しかし、力織機の導入はその状況を一変させたのです。
大正から昭和初期にかけて、湖北の縮緬業界は生産構造を力織機へと転換させてゆき、それに伴って、工場の形態も家族経営から会社組織へと移り変わってゆきました。先述した滋賀県工業試験場による力織機を使った縮緬の新製品開発と普及も後押しとなって、湖北・長浜の各所には規模の大きな縮緬工場の設立が始まり、浜縮緬は隆盛の時期を迎えることとなったのです。現在も長浜近郊の各所には、ノコギリの歯の形をした織物工場が数多く見られます。
近世後期の浜縮緬と彦根藩国産方などとの関係性については、『長浜市史』第3巻「町人の時代」の210ページから212ページに詳しく書かれています。また近代以降の浜縮緬の展開については、『長浜市史』第4巻「市民の台頭」の51ページから56ページや、同書の173ページから177ページなどに詳述されていますので。併せてご参照ください。
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▲縮緬工場のノコギリ屋根(明治時代後期) |
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