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2.石田三成像
 石田三成は、関ヶ原合戦で敗れた後、伊香郡古橋(長浜市古橋)の岩窟に隠れていたが、9月21日に田中吉政に捕らえられたという。慶長5年(1600)10月1日、六条河原で斬首され、三条橋の傍らで晒首にされた。その遺骸は、大徳寺の円鑑国師(春屋宗園)に引き取られ、同寺三玄院の境内墓地に葬られた。その後、明治40年(1907)に、東京大学の渡辺世祐博士が三成伝記編纂のためにその墓を発掘し、京都大学解剖学教室の足立文太郎博士が遺骨を鑑定調査した。近年に石田多加幸氏の依頼で、この時に撮影された頭蓋骨の写真や遺骨のデータをもとに、昭和51年(1976)東京科学警察研究所の元主任技官長安周一氏が石膏による復顔を行った。更にそれをもとに、関西医科大学の石田哲郎教授の指導のもと、昭和55年(1980)3月に日本画家前田幹雄氏の手によって完成したのが本像である。つまりこの像は、現代作品とはいえ充分な科学的根拠に基づいて作成されたもので、在りし日の三成の容貌を偲ぶことができる。賛は、元三玄院住職長谷川寛州禅師の手になるものである。本肖像は、同時に4幅制作され、大阪城天守閣と大徳寺三玄院・石田家にも所蔵されている。

【昭和55年(1980) 縦159.0p×横58.5p】

 
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