国史跡 「北近江城館跡群」三田村氏館跡(三田町)
1.歴史的概要
 当館跡の城主である三田村氏については、元京極氏の根本被官であり、江北を支配し近江守護となった京極高清に仕え、明応5年(1496)には浅井直種らとともに美濃斉藤利国の援軍として出兵『船田後記』するなど、各地を転戦して功を挙げている。
 その後、浅井氏の江北での勢力の拡大に対して、一族の中に反感を持つものが出て内紛を生じたようで、大永5年(1525)、六角定頼が江北に侵攻した際に一族が分裂し、浅井方についた三田村氏はその後、浅井氏の江北における治世の拡大とともにその中で重きを成して行ったとされている。
 三田村氏館跡の最後の城主である三田村左衛門は『嶋記録』によると今井定清と縁戚関係にあったとされ、『信長公記』によると元亀元年(1570)姉川の合戦の際には横山城の城守を務めていたとされるが、信長の進行により小谷城に撤退しており、姉川の合戦後は小谷城中ノ丸に篭もっていたが、天正元年8月(1573)小谷城落城の際に秀吉を通じて信長に降るも容れられず、一族とともに処刑されたと『総見記』は伝えており、この段階で三田村氏館跡は廃城になったと考えられている。
 なお、処刑された三田村氏一族を含む77名が、三田町内にある通称西三昧に葬られたと伝えられており、現在は当地に碑が建っている。
 姉川の合戦は、姉川を挟み、長浜市野村町付近で浅井長政軍と織田信長軍が対峙し、三田町付近で越前から援軍として駆けつけた朝倉景建軍と徳川家康軍が対峙し戦端が開かれたとされている。信長公記巻三には、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田の郷に移りと記されており、それぞれの軍の位置関係等から三田村氏館跡に朝倉景建軍の本陣が置かれたと考えられる。

土塁北辺から西辺(北西から)

2.遺構概要
主郭内部の確認調査から明らかになった点の内、特に重要であると考えられるのは、郭内部に基幹的な排水路であると考えられる溝が、土塁と並行してそれぞれ2条検出された点、および土塁の構築時期が2時期に分かれるという点である。
 まず、排水路と考えられる溝についてであるが、溝は、虎口部分で合流し虎口を通り堀へ向かって掘られていたと推測できる。また、溝内から出土した遺物の年代に幅があり、16世紀前半の遺物とともに17世紀以降の遺物も出土している。このことは16世紀前半から17世紀以降のある時期にいたるまで開渠であったと考えることができ、溝が郭内の基幹的な排水路であっため、埋没しないように十分に手入れがなされていたことが推測できる。
 今回検出されたような、郭内部に2条の溝を廻らせる事例は全国的に見ても非常に類例の少ないものである。
 次に、土塁についてであるが、古い段階に造られたと考えられる下層から出土した遺物についてみてみると、古いものは9世紀後半、最も新しいもので16世紀初頭のものが出土している。最も新しい年代を示す資料を下限として土塁の構築時期を推測すると、16世紀初頭以降の構築ということになる。
この時期は、三田村氏と深いかかわりを持つ京極氏が、上平寺(現米原市)に居館を構えたとされる永正2年(1505)から大永3年(1523)と合致するもので、京極氏との係わりの中で三田村氏館跡を構築したと推測することができる。次に新しい段階の土塁についてであるが、古いものは15世紀後半、新しいもので16世紀前葉以降のものが出土しており、土塁の構築時期は16世紀前葉以降であると考えられる。この時期は、江北において、京極氏から浅井氏の時代に移り変わる時期に当たり、三田村氏が浅井氏とともに活躍していた時期と合致する。以上のことから、三田村氏館跡の形成時期を推測すると、京極氏が上平寺に居館を構えた時期に、土塁(防御施設)を伴った館が構築され、その後浅井氏が江北で勢力を拡大して行く時期に、館も防御機能を高めるように土塁の改築がなされたと考えられる。

土塁断面
3.調査・保存の経緯
平成15年7月に開催された「中近世城郭遺跡検討会」において、北近江城館跡群 下坂氏館跡 三田村氏館跡(説明名称「湖北の平地居館群」)に関し、委員より「平地に所在する土塁囲いの城館の期限が、中世まで遡りうるものなのか発掘調査による検証が必要」との指摘を受けたため、三田村氏館跡については平成17年度より、土塁の構築年代、郭内の遺構の状況およびこの年代を把握することを目的として確認調査を実施した。
 調査の結果、前述のとおり、土塁囲いの城館の初現期は15世紀後半から16世紀初頭と考えられ、京極氏との関係が文献上押さえられる時期にあたる。土塁の改築年代および郭内の基幹的排水路の構築時期は16世紀前葉頃と考えられ、江北における政権が京極氏から浅井氏に移り、浅井氏との関係が強化された年代と符合することが確認された。
 また、既に史跡指定されている下坂氏館跡に関しては、下坂氏の系譜を伝える豊富な文献資料から、元京極氏に被官していたものが、政権の移行に伴い浅井氏に被官し、両氏の重臣として活躍したことが明らかであり、発掘調査の結果も、土塁囲いの館の構築時期が京極氏との関係を裏付ける時代のものであると推測されている。

排水溝の検出状況
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