国史跡 「北近江城館跡群」下坂氏館跡 (下坂中町)
1.地理的概要
 下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に位置し、東に伊吹山麓、西に琵琶湖を望む。館跡の北側に姉川を源とする五井戸川が流れ、自然堤防上の微高地で周辺を森に囲まれた小高い場所に位置している。

下坂氏館跡空撮写真
2.歴史的概要
 下坂氏は近江国坂田郡下坂庄の国人領主である。下坂庄は下坂中、大戌亥、高橋、下坂浜の四ヵ村からなっている。
 下坂氏は建武3年(1336)7月の足利直義からの感状を始め、佐々木氏・京極氏・浅井氏との関係を示す史料が存在する。特に天文11年(1541)頃から、京極氏や浅井氏との関係を示す文書が数多く出現し、天正元年(1573)浅井氏滅亡までの下坂氏との関係がよく分かる。これらの文献は697点に及び、下坂家文書として市の指定文化財となっている。
 下坂氏館跡の現在の遺構が室町時代に完成していたことが史料から分かるとともに地理的条件、占地、城郭の構造からみて、典型的な中世の平地城館遺構である。
 浅井氏滅亡以後は下坂氏は帰農するが、現在も館跡に居住し当主は下坂氏の子孫である。
3.遺構概要
 遺構は、東西約89m、南北約87mの範囲において、高さ約1〜2m、幅約2〜5mの2重の土塁で囲み、幅約5〜13m、深さ約1〜3mの堀が現存している。南側で土塁、堀が失われているが復原が十分可能である。主郭は東西約55m、南北約42mの内側土塁によって囲まれ、その北東側と南西側の2つの副郭により構成され、南西側の副郭は一段高くなっており、武者たまりと考えられる。下坂家の伝承では、その副郭に有事の際に立籠もり、防戦につとめたと言う。内側土塁の東側に高さ約2m、幅約7mの虎口を設けており、東側平坦部の東西約75m、南北約45mの腰郭へと続く。また、下坂家の菩提寺である不断光院の東側に幅約5m、長さ約30mの土塁が現存しており、さらに南東部に土塁、堀が設けられていたと思われる。
 館内南東に下坂氏の菩提寺で木造入母屋造茅葺の不断光院の本堂と切妻造茅葺の門がある。古くは天台宗に属して西福寺と称していたが、後鳥羽上皇の皇子が当寺で薙髪して高雲山不断光院と称したのを機に寺名を改めた。観応年間(1350〜1351)に再興され、浄土宗に転じ現在に至る。館中央に切妻造茅葺の門と木造入母屋造茅葺の主屋と主屋の北東と南西に屋敷社が祀られている。不断光院及び主屋の建築時期は18世紀前期と考えられ、門も同時期と考えられる。
 下坂氏館跡は室町時代の土塁、堀、主郭、副郭、腰郭の遺構が残っており、滋賀県下においても屈指の平地城館遺構である。下坂氏は京極氏との関係や浅井氏との関係上重要な存在であり、遺構の残りもきわめて良好で貴重である。

堀と土塁
下坂氏館跡平面図

 調査の結果、堀や土塁などの残存状況が判明するとともに、出土遺物から築造年代をある程度絞り込むことができた。また、今まで具体的な遺構が検出されていなかった腰郭でいくつかの遺構が検出された。その中で特に重要と思われる成果としては、現況地形から把握できなかった土塁の存在が確認できたことや、虎口付近で検出された階段状遺構が上げられる。
土塁
 トレンチ6から検出された。残存高さ0.48m、幅は0.8mを計り、土塁基底面からは弥生後期の遺構を確認している。
さらに、土塁裾部に沿うように排水溝と考えられる溝状遺構が2条延びることが確認された。他のトレンチや三田村氏館跡でも同様の類例が見られる。1条が埋没した後、新しい溝を掘りなおした様子が堆積状況から観察できる。図化できる遺物の出土はなかった。
 その他トレンチ6からは礎石を伴うピットが検出されており、何らかの建物が建てられていたことがほぼ確実といえる。
遺物は土塁の埋土から14世紀中頃〜15世紀初頃の土師皿片が出土している。また、全体的に弥生後期から古墳時代の遺物が多く含まれる。
階段状遺構
 トレンチ8から検出された。盛土によって築造されており、土留めの石などは確認していない。階段は三段確認したが、トレンチの位置や現況地形を考慮するとさらに1段〜2段、堀(東掘)側に存在する可能性が考えられる。階段の規模は段差が高さ約0.18m〜0.34m、平坦部奥行きは一段につき約1mを計る。最上段と堀の水面からの高低差は現況で約1.0m、最上段までの奥行きは約3.61mを計る。
 これらの遺構は、土塁や虎口の存在のみではなく、通路や建造物の位置関係など廓全体の構成を類推する上で貴重な資料である。

階段状遺構

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