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歴史に残る人や文化財

田中豊文とよふみ(1876~1939)

ふるさとの未来を見つめた1冊の本があります。『三十年後の虎姫』-90年以上前の大正12年(1923)に発行されました。 著者の名は田中豊文。今日の郷土の基礎を創り上げた立役者の一人です。

豊文は明治9年(1876)1月、田中家の長男として三川に生まれました。幼少の頃から聡明であった豊文は26歳の時に村議会議員に選ばれました。 議員活動を続ける一方、早稲田大学法律科の校外生として勉学に励み、明治41年(1908)法科を卒業しました。卒業後すぐに助役に、翌明治42年(1909)から大正4年(1915)まで虎姫村長に就任しました。


30歳のころ

35歳の若き村長の前にはたくさんの課題がありました。 まず、虎姫に大きな被害をもたらした姉川大地震後の救済に励み、その際全国から寄せられた義捐金を一時的に使うのではなく、産業組合(現在の農業協同組合)を作る資金としたのです。 組合設立後、その基礎が固まるまでの数年間は初代理事長として無報酬で勤め、その間農業倉庫等の設立に力を尽くしています。 また豊文は、長年不幸な日々を送っていた人々のために率先して「協和一致」をよびかけ、誤った風習の改善に自分の生活と財産を注ぎました。 その一つとして明治43年(1919)1月、人権教育を進める願いをもって、困っている人々を救済する団体を設立し、初代理事長に就任しました。
一方で、遅々として進んでいなかった「田川直流工事」にも力を注ぎます。 明治44年(1911)2月から大正3年(1914)11月まで田川改修工事を数回に分けて実施、地元負担の工事費をつくりだすため自分の家や土地を担保として提供、 直流工事によって田川カルバートもその機能を充分に発揮できるようになり、人々は永年苦しめられた水害から免れることができたのです。

大正4年(1915)には県の要請により、広く県下から希望者を募り数十世帯の移民団を引率して北海道北見の地(現在の上湧別町)へ渡り、155ヘクタールもの広大な土地を借り受け、そこに一集落(ふみ村)を設けました。 現在のように交通機関の発達していなかった時代に、大勢の人を引き連れて遠くオホーツク海に近い場所への旅は決して楽なものではありませんでしたが、 移住した人々の喜びは大きく、豊文の功績を後世に伝えるため田中豊文神社を建てたといいます。

豊文が見つめ続けた虎姫


60歳のころ

村長を辞任した後は、大正8年(1919)東浅井郡郡会議員に就任。虎姫に県立中学校の設置を提唱し、その実現に東奔西走とうほんせいそうしました。 翌年、豊文の熱意に動かされた関係者の賛同もあり、ついに県下で四校目となる県立虎姫中学校(現在の県立虎姫高校)の開校に成功したのです。 こうして何よりも村民のことをまず一番に考え、政治の世界で活躍してきた豊文は大正12年(1923)、全ての公職を去り、神官として新たな道を歩みました。
昭和14年(1939)10月11日、郷土の人々から惜しまれながらその生涯を閉じました。64歳でした。

将来のふるさとの発展を願って書いた『三十年後の虎姫』の中で豊文は「現在の虎姫村が虎姫町という名称に変わる時は果たして何年後であろうか。 百年後か、五十年後か、もっとずっと早くて十年位の後であろうか。」と述べていますが、彼の念願)あった虎姫町制がしかれたのは、彼が亡くなった翌年の昭和15年(1940)12月のことでした。

教科書との関連

  • 小学社会6年上126頁~「国力の充実をめざす日本と国際社会」《明治・大正時代を生きた人々》(日本文教出版)
  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)《第5編「近代の日本と世界②二度の世界大戦と日本》

参考資料

  • 「虎姫のむかし話」
  • 虎姫小学校制作紙芝居「田中豊文」