中世
浅井氏と北近江の土豪たち
戦国大名浅井氏の家臣は、北近江の村々に居住した地侍(土豪とも呼ばれる)たちであった。彼らは、土塁と堀に囲まれた約70メートル四方の城を村に構え、村人の一部を家臣として、農耕や戦闘に従事させていた。
浅井氏家臣団の構成
浅井長政書状 下坂四郎三郎宛 長浜市長浜城歴史博物館蔵
小和田哲男氏によれば、戦国大名浅井氏の家臣団は、旧国人領主である上層家臣と、土豪である下層家臣に分かれていたと指摘されている。
上層家臣としては、磯野氏・上坂氏・赤尾氏・堀氏・今井氏・安養寺氏・三田村氏・雨森氏・海北氏・大野木氏が上げられている。彼らは京極氏家臣から、そのまま浅井氏家臣になった者が多い。
下層家臣に当たる地侍層は、村落領主であり土豪とも言われた。彼らは上層家臣に属する形で、いわゆる陪臣(ばいしん、家来の家来)として浅井氏に仕える形をとったと考えられている。
小和田氏は下層家臣の例として、坂田郡南部の天野川流域の土豪たち、岩脇氏・井戸村氏・嶋氏を上げている。彼らは上層家臣に当たる坂田郡箕浦(米原市箕浦)の今井氏に属する形で浅井氏に仕えた。
しかし、浅井氏家臣団の全体を見渡すと、上層と下層を明確に区分することは不可能であるとの見解もある。
それは、下層家臣である地侍が、浅井氏当主から直接、
浅井氏家臣の居城
三田村氏館 虎口
浅井氏の家臣団の居城は、基本的には彼らが住む館が当てられた。上層・下層に関わらず浅井氏家臣は、村落領主としての面を持っており、村においては大地主でもあり、村政の中核を担っていた者もあったと推察される。
現地で統治・所有する土地がある以上、彼らは本来の居住地からは離れることはできず、浅井氏も地侍の村々の統治を追認するしかなった訳である。
逆に言えば、織田信長のように家臣の領地替えを行なえる程、浅井氏の政権は成熟していなかったと言える。
浅井氏家臣団の多くは、その本来の居住地に築かれた、約70メートル前後の土塁と堀に囲まれた方形の地を城館に住み、村の百姓を被官(家臣)として、地域の防衛と浅井氏からの軍事動員に応えていたのである。
北近江の地侍の館跡として、長浜市内で著名なのが、国指定史跡となっている下坂氏館(長浜市下坂中町)と三田村氏館(長浜市三田町)である。
ここでは、今でも堀や土塁の痕跡が明瞭に残っている。平成8年に滋賀県教育委員会がまとめたデータによると、現在の長浜市域には279の城跡、米原市には121の城跡があることが報告されているが、
その大半が浅井氏の家臣、すなわち地侍の館跡であったと考えられる。
浅井氏家臣たちの江戸時代
この家臣団は浅井氏滅亡の後、引き続き武士として秀吉や信長の家臣になるものと、武力を捨てて村の有力者(郷士という)・大地主となる者に分かれていった。 このように、地侍たちが、武士になり都市に出る者と、村に残り農民になる者が分かれていくことを、兵農分離という。 その結果、江戸時代においては村々に、武士が住むことがなくなった。 秀吉や信長の家臣になった旧浅井氏家臣は、江戸時代には大名やその家臣になった者が多く、本来の居住地から離れて、日本各地の城下町や江戸で生活するようになる。
教科書との関連
中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)81頁《第3編「中世の日本」 ③室町幕府と下剋上 4立ち上がる民衆と戦国大名》、 106頁《第4編「近世の日本」 ①中世から近世へ 4天下統一と近世社会の基礎づくり、114頁《第4編「近世の日本」②江戸幕府の成立と東アジア》
参考文献
- 小和田哲男『近江浅井氏の研究』(清文堂、2005年)
- 滋賀県教育委員会『滋賀県中世城郭分布調査』6・7(1989年・1990年)
- 滋賀県教育委員会『淡海の城 滋賀県中近世城郭分布地図』(1996年)
- 長浜市長浜城歴史博物館『戦国浅井戦記 歩いて知る浅井氏の興亡』(サンライズ出版、2008年)
- 長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名 浅井氏と北近江ー浅井三代から三姉妹へー』(2008年)
図版・写真
- ①浅井長政書状 下坂四郎三郎宛 長浜市長浜城歴史博物館蔵
- ②三田村氏館 虎口(北から撮影)