1. HOME
  2. 歴史的分野
  3. 中世
  4. 戦国時代の合戦と城
  5. 小谷山城の歴史と構造

中世

小谷山城の歴史と構造

小谷城は、長浜市の小谷山にあり、北近江の戦国大名・浅井氏が三代にわたって居城としていた山城である。 浅井長政と織田信長の妹・お市、その間に生まれた浅井三姉妹(茶々・初・江)ゆかりの城として知られる。小谷城の歴史と構造について、見てみよう。

浅井氏と小谷城


小谷城 黒金門跡

小谷城を築いた浅井氏は、北近江の守護・京極氏の重臣で、小谷山西麓の丁野(ようの:長浜市小谷丁野町)を本拠としていた。大永3年(1523)、 初代亮政が京極氏の内紛に乗じて国人一揆を起こし、やがて主導権を握ると北近江を支配するようになった。
小谷城はこの頃に築城されたと考えられており、亮政は琵琶湖と湖北平野を一望できる小谷山の頂上から中腹にかけて山城を築いた。以後、亮政・久政・長政とつづく浅井三代の拠点となる。
16歳で家督を継いだ三代・長政は、その後、織田信長の妹お市をめとり、信長と同盟関係を結ぶ。しかし、元亀元年(1570)4月に信長が越前(福井県)の朝倉氏を攻めたことで、その関係性は一転。 長政は、朝倉氏をはじめとする反信長勢力と同盟を結ぶことを選び、信長と戦うことになった。この反信長勢力は、その後、本願寺や武田信玄も加わり、大きく発展していく。
同6月28日、小谷城からおよそ7km南の姉川で、浅井・朝倉連合軍は、織田・徳川連合軍と戦うが、結果、織田・徳川軍の勝利となった。 しかし、小谷城の防備は非常に堅固であったことから、信長は城攻めを避け、小谷城の南方に位置する横山城(長浜市堀部町・石田町、米原市朝日)を奪い取って、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を城番とし、小谷城を監視させる。
元亀3年(1572)、信長は小谷城の眼前にある虎御前山城の本格的な普請を行い、横山城との連携を強化する。 そして天正元年(1573)、秀吉を先陣とする織田軍の総攻撃の前に小谷城は落城し、久政・長政父子は自刃、浅井氏は滅亡した。
浅井氏の旧領のうち、北近江三郡(坂田・浅井・伊香)は秀吉に与えられたが、秀吉は小谷城が琵琶湖から離れているなどの理由から、新たに長浜城を築城し、小谷城は廃城となった。

小谷城の遺構


清水谷から見た小谷城跡

通常、戦国時代の山城は、山頂に防御施設としての山城と、麓に居住施設としての居館という二元的構造となる。 しかし、小谷城では防御施設として小谷山の山頂に築かれた大嶽(おおづく)と、大嶽の南方に伸びる尾根頂部に構えられた本丸・大広間地区と、清水谷に構えられた浅井氏一族や家臣団の屋敷という三元構造となっている。 さらに大嶽の南西方向に伸びる尾根には福寿丸・山崎丸、東側尾根に月所丸と呼ばれる出城を構えていた。
大広間は小谷城の中で最も広大な曲輪で、曲輪全体から礎石建物が見つかっており、その名の通り巨大な御殿が構えられていたことが明らかとなっている。 また、発掘調査では、大広間から3万7千点におよぶ膨大な遺物が出土しており、素焼きの土師器皿やバンドコ(行火)などの生活用具が出土していることから、山上の大広間は居住施設として使われていたと考えられる。
小谷城跡は昭和12年(1937)に国指定の史跡となり、平成7年(1995)には清水谷地区が追加指定となっている。

資料

別紙「小谷城絵図 長浜市長浜城歴史博物館蔵」

教科書との関連

  • 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)81頁《第3編「中世の日本」 ③室町幕府と下剋上 4立ち上がる民衆と戦国大名》
  • 103頁《第4編「近世の日本」 ①中世から近世へ 3ヨーロッパ人の来航と信長》

参考文献

  • 長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名 浅井氏と北近江‐浅井三代から三姉妹へ-』(2008年)
  • 長浜市文化財保護センター「戦国大名浅井氏の居館 史跡 小谷城跡」(2009年)
  • 長浜市長浜城歴史博物館『浅井三姉妹を歩く 大河ドラマ 江~姫たちの戦国~の舞台』(2010年)
  • 滋賀県教育委員会「埋蔵文化財活用ブックレット7 小谷城跡をめぐる城々」(2011年)

写真

清水谷から見た小谷城跡、小谷城 黒金門跡

小谷城総図 長浜城歴史博物館蔵