浅井氏と湖北
賤ヶ岳合戦の経過と史跡
本能寺の変で討死した織田信長の後継者をめぐって、長浜市の余呉湖周辺で行われたのが賎ヶ岳合戦である。 この合戦で勝利した羽柴秀吉は、天下人への最初の階段を登ることになる。また、余呉湖周辺には、両軍が構築した多くの砦(陣城)が現存していることも知られている。 「賎ヶ岳城塞群」と呼ばれるこれらの砦には、今も多くの人が訪れている。
合戦に至る経緯
本能寺の変後に明智光秀を討った羽柴秀吉は、織田信長の後継者を決める「清州会議」を主導し後継者を信長の嫡孫「三法師」と定めた。 これによって、三男の信孝を推薦した柴田勝家との不和は決定的なものとなった。天正11年(1583)2月、柴田軍が北近江に侵攻し、勝家は本陣を内中尾城(玄蕃尾城)とし、行市山・林谷山・中谷山・橡谷山・別所山等に陣城を構えた。 一方、秀吉は3月以降、左禰山(東野山)・神明山・堂木山・田上山・賤ケ岳等に陣城を築き対峙した。
賎ヶ岳合戦図屏風(右隻) 長浜市長浜城歴史博物館蔵
両軍の陣形
4月20日、秀吉が大垣城に入った間隙をぬって、柴田方の佐久間盛政・柴田勝政兄弟が、余呉湖の南、賤ケ岳の麓を通り、中川清秀の守る大岩山砦と岩崎山砦を急襲し清秀は討死する。 大垣でこの変報を聞いた秀吉は、急遽軍を移動させ、50キロの道程を5時間で走り通し、午後9時には木之本に到着した。「秀吉来る」の報に接した佐久間軍は、退却を始めた。 21日未明、賤ケ岳切通附近で退却する勝政隊に、秀吉は銃撃を加えて動揺させ、馬廻隊が突撃した。 世にいう「賤ケ岳七本槍」はこの時の事で、勝政隊に大打撃を与えた。 そしてこの敗北で、前田利家が陣地を捨てて敦賀方面に脱出し、柴田軍は全軍が動揺し、秀吉軍が全面攻撃に出たので勝家本隊も敗北、勝家は馬印を毛受庄助に渡し、北ノ庄目指して落ちのびた。
合戦後の北庄落城
23日秀吉は、越前北庄城(福井市)を包囲した。最後まで立て籠もる兵は、わずかに200人ばかり。24日総攻撃が開始され、勝家は再婚した「市」以下一族の子女を刺殺し、最後に切腹して果てた。
ただし、「市」と前夫・浅井長政の子である「茶々」・「初」・「江」の三姉妹は、城から救い出され秀吉の庇護下に入った。信長の後継者をかけた争いは、秀吉の勝利に終わり、その地位を不動のものとした。
賤ケ岳一体の山々には、両軍の陣城が現在でも当時のまま残っており、特に柴田勝家の本陣・内中尾城(玄蕃尾城)は、国史跡に指定されている。
資料
別紙「羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図」、「柴田方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図」
教科書との関連
- 中学社会「歴史的分野」(日本文教出版)106頁《第4編「近世の日本」 ①中世から近世へ 4天下統一と近世社会の基礎づくり》
参考文献
- 長浜市『長浜市史』2 秀吉の登場(1998年)
図版・写真
賎ヶ岳合戦図屏風(右隻) 長浜市長浜城歴史博物館蔵
羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図
柴田方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図