毎年五月五日になると、長浜市七条町の鎮守足柄神社では春の例大祭が賑々しく催されます。このお祭りの呼び物には、「センザキョウ」の掛け声とともに若い衆によって担がれる勇壮な神輿の渡御と、子どもたちが鎧をまとって練り歩く武者行列があるのですが、それと共に、御旅所からの渡御を終えた神輿が足柄神社の境内に入る際に、能面をかぶった「尉(ジョウ)」と「姥(ウバ)」の二人が獅子を伴って神輿を鳥居まで出迎えるという印象的なシーンが見られるのも興味深い祭りです。実は七条の地と能面とには、昔からの縁で結ばれた深い関係性があるのです。
七条町の足柄神社は、建長三年(1251)に創建されたとの社伝を有する古社で、その昔、相模の国の住人井関氏が七条の地を訪れたときに、足柄山箱根権現を勧請したのがその始まりであると伝えられています。この井関家は、江戸時代には天下一の能面打ちと称えられた家柄ですが、彼らが面打ちの技法を体得し、これを家職としはじめたころに住居したのが、坂田北郡の七条であったのです。
面打ちとしての井関家は、初代の上総介親信から二代次郎左衛門(親政)、三代備中掾(家政もしくは家久)、そして四代河内大掾家重へと受け継がれ、この四代家重の時に江戸へ移り住むのですが、七条に住んだ初代から三代までの井関氏は、特に「近江井関」と呼ばれています。
近江井関の一族が打った面は現在も各地に伝えられています。例えば、高知県の旧土佐国総鎮守土佐神社には、戦国武将長宗我部元親(1538−1599)が寄進したと伝える「小尉」の面が所蔵されていますが、その面の額の部分には「江州坂田北郡 井関□□□ 源親信作也」との文字が墨書されているのです。
また、兵庫県篠山市の能楽資料館が所蔵する「般若」の面には、「江州北郡住 井関親政作」と「永禄元年□六月吉日」(永禄元年は西暦1558年)の墨書銘があり、この面が近江井関二代の次郎左衛門親政の作である事をうかがわせます。なお、この面の裏側には、ちょうど両目の穴の間に「◇」のマークが刻まれているのですが、これは二代井関次郎左衛門親政が使った刻銘でした。またこの他にも、多賀大社に伝わる井関次郎左衛門作の「三日月」と「橋娘」や三代備中掾作の「茗荷悪尉」など、井関一族によって打たれた能面は各所に伝来しています。
さて、七条町足柄神社の春祭りに話を戻しましょう。この祭りには「尉」と「姥」の面を被った二人が獅子と共に神輿の境内参入を先導することは先に述べましたが、実は現在使われている面よりも前に使われていたという面が二枚、足柄神社には伝え残されているのです。これらは「茗荷悪尉」と「大天神」の面なのですが、それぞれの面の裏側には「イセキ」という文字と、井関次郎左衛門親政の作をあらわす「◇」のマークが共に刻まれています。足柄神社の春祭りに登場する「尉」と「姥」は、能面打ち井関氏の歴史の記憶を今に代える大切な民俗行事なのです。
現在の七条町足柄神社の春祭りは、16歳以上地元の若者たちが中心となってこれを執行しています。祭礼当日、神輿を担ぐ者たちは、かつて開新学校として使用されていたという木造平屋建ての会議所にそろいの法被姿で集い、「センザキョウ」と掛け声をかけながら気勢を上げます。そして、役付きの若者たちは羽織袴姿で神輿渡御の行列を統制し、一方「尉」や「姥」、そして獅子などをつとめる若者たちは、ひと足先に足柄神社の拝殿で身支度を整えて、神輿の到着を待つのです。
地元の若者たちは、この「尉」と「姥」の面を、それぞれ親しみを込めて「じいさん」「ばあさん」と呼んでいるのが微笑ましい限りです。足柄神社の境内には、平成10年に井関能面師の碑が建てられ、その顕彰活動が行なわれています。
近江井関氏については『長浜市史』第二巻のp103からp107を、また七条町の春祭りについては『長浜市史』第六巻のp152からp160を、また足柄神社の境内や七条町の景観については『長浜市史』第七巻のp290からp293をご参照下さい。
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七条町足柄神社の春祭りより、
神輿を迎える「尉」と「姥」
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能面「茗荷悪尉」
(足柄神社所蔵)
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