|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
▲力織機が導入された蚊帳工場の様子
(明治時代後期/現・長浜市南小足町) |
|
▲縫い上がった浜蚊帳を折りたたむ様子
(昭和時代/現・長浜市南小足町) |
|
|
梅雨空の季節を迎えて、蒸し暑さで寝苦しい夜が続くようになると、窓を開けて涼しい夜風を部屋の中に導き入れたりされる事と思います。そんな時、その涼風と共に侵入してくる蚊を防ぐために使われていたのが蚊帳でした。昔ながらの田の字型の湖北の民家の長押(なげし)には、今でも蚊帳を吊るための金具がかかっているのを、時折見かける事があります。ほんのすこし前までは、蚊帳は夏の夜を過ごす必需品だったのです。
さて、湖北長浜の織物文化を語る上において、浜縮緬と並んで重要な位置を占めるものに「浜蚊帳」が挙げられます。
江戸時代、近江の国は奈良と並ぶ蚊帳の一大生産地として、全国にその名が知れ渡っていました。もともと近江の蚊帳産業は、八幡(近江八幡)で奈良の蚊帳地を仕入れて売買する商人があり、それが慶長年間(1596−1615)に地元生産に切り替えて、これが盛況となったものであると伝えられていますが、長浜の蚊帳生産には、寛文年間(1661−1673)に坂田郡中村(現・長浜市新庄中町)の枡屋治平が、八幡で蚊帳の製造技術を習得してこれを長浜に伝えたのが、その始まりであるとの伝承があります。
寛政年間(1789−1801)、長浜で製織された蚊帳は十軒町(長浜市大宮町)の木綿屋市郎兵衛、神戸町の保多屋吉兵衛、南伊部町の俵屋甚兵衛、三ツ屋町の坂本屋久次郎(いずれも現・長浜市元浜町)の四名の蚊帳問屋によって京都や大坂に売りさばかれてゆきました。
こうして、長浜の蚊帳生産は次第に隆盛してゆき、生産量の増加からついには原料となる麻を越前(現・福井県)にまで求めるようになるのですが、文政10年(1827)には越前福井藩が麻の出荷の統制に乗り出し、一方、長浜側の領主である彦根藩も、蚊帳を藩の特産物として一括管理する好機ととらえ、この時、長浜に「蚊帳地売買会所」が設立され、以後長浜の蚊帳は彦根藩による保護と統制を受けることとなるのです。
そして明治時代を迎え、彦根藩の統制下で力を蓄えてきた長浜の蚊帳産業は、幕末維新の混乱期を巧みに乗り切り、近江蚊帳の本家であった八幡の蚊帳生産をもしのぐ勢いを見せるようになります。明治時代後期には、力織機が導入された大規模な工場が長浜周辺にいくつも建設され、長浜で織られた蚊帳「浜蚊帳」は日本全国に販売網を拡大させ、「浜蚊帳」の名は、近江を代表する蚊帳のブランドとして確立してゆくのです。
その後、明治大正昭和と、浜蚊帳は長浜を代表する織物産業であり続けました。しかし、昭和40年代頃から、蚊帳の需要は次第に減少しはじめます。長浜市内にあった蚊帳工場も、別の製品をつくるなど業務を転換させてゆき、浜蚊帳の生産は時代と共に消え去っていったのです。
浜蚊帳に関しては、『長浜市史』第3巻「町人の時代」の216ページから225ページまでと、『長浜市史』第4巻「市民の台頭」の178ページから179ページ、そして『長浜市史』第5巻「暮しと生業」の236ページから238ページなどに詳述されていますので、併せてご参照ください。
|
|
|
▲近江蚊帳の商標(昭和時代) |
|
|
|
|
|
|
|
|