長浜市内には、毎年みごとな紅葉を見せてくれる名所がありますが、そのひとつが、名越町の名超寺から後鳥羽神社の社殿にいたる境内です。
後鳥羽神社は、その名が示すとおり後鳥羽天皇(1180−1239)にゆかりの神社です。後鳥羽天皇は、鎌倉幕府の執権北条義時打倒をめざして挙兵した承久の乱(1221年)の首謀者として、乱に敗れて後に現島根県の隠岐島に配流となった悲運の人物として知られていますが、名越町の名超寺には、後鳥羽天皇が、在任中の建久10年(1199)と退位後上皇となってからの承久2年(1220)との二度にわたって同寺を訪れ、近習であったこの寺の僧禅行に幕府調伏の祈祷を依頼したとの伝説があるのです。
名超寺は、伊吹山寺の開祖三修沙門の高弟名超童子が創建したと伝える天台の古刹で、全盛期には七堂伽藍に四十九の坊院が立ち並んだとされています。現在も四十九院のうち平等院と観成院の両院が残り、円光院の跡と伝えられる地所もあります。名超寺は、源平の争乱が激しかった治承4年(1180)に山本義経と平家方との戦いの兵火に焼かれたのですが、文治5年(1189)に再建され、この頃に延暦寺宝幢院の阿闍梨であった禅行が入ったといいます。そして、後鳥羽上皇はこの禅行の導きで名超寺に立ち寄り、円光院にて鎌倉幕府の追討をはかり、その時に自身の木像を刻んで同寺に残したと伝えられています。
後に、この木像を安置して後鳥羽上皇を祀った後鳥羽殿が境内に建てられます。しかしながら、戦国乱世の時代を経て、名超寺の寺勢も次第に衰えてゆくのですが、明治11年(1878)10月、明治天皇が滋賀県を巡幸された際に、住職の名超還寂がこの後鳥羽上皇の木像を大津の行在所に運び、天皇陛下の叡覧を受けます。そして翌明治12年には後鳥羽天皇を祀る社殿建設の許可が下り、翌年10月1日に遷宮祭が執り行われて、後鳥羽神社が創建されたのです。
再建なった後鳥羽神社には、明治天皇から勅額が下賜され、その後も明治維新政府の高官や著名人からの寄付や寄進が相次いで寄せられました。その背景には、幕府追討を夢見て果たせなかった後鳥羽上皇の境遇が、同じく倒幕に動いた明治政府の要人たちの心情に沿ったという事情があったのかもしれません。後鳥羽神社には、勝海舟や山岡鉄舟のほか、勤皇書家の日下部鳴鶴、絵師の岸竹堂の作品などが伝来しています。
さまざまな時代の波に翻弄されながら、現在の名超寺と後鳥羽神社の境内は静かなたたずまいを見せています。
名超寺や後鳥羽神社に関しては、『長浜市史』の第一巻「湖北の古代」の401ページからと502ページから、そして『長浜市史』の第二巻「秀吉の登場」の359ページから、それから『長浜市史』第七巻「地域文化財」の434ページからの部分などに詳しく記載されていますので、ぜひご参照下さい。
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