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西陣へ糸運ぶ図(成田思斎『養蚕絹篩』より) |
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繭を収穫する長浜農学校生 |
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湖北長浜は、浜縮緬に代表される絹織物のマチとして近世中期からその名が知られるようになりましたが、縮緬業が湖北に隆盛する以前には、織物の原料となる糸の産地として位置付けられていました。
長浜を集積地として主に京都に出荷された湖北産の糸は、「浜糸」と呼ばれて西陣など京都の織物産業を支えたのです。長浜の浜糸に関する歴史については、江戸時代初期にはその取引の様相をうかがわせる史料が散見されることから、近世期初頭には既に本格的な生産と流通の体制が整えられていたものと考えられます。
ところで、湖北の養蚕業の最盛期は、近代化以降の明治後期におとずれることとなります。明治維新以降の新政府による富国強兵政策の推進によって、生糸は日本の主力輸出品目とされ、諸国の産地はその生産力を飛躍的に増進させていったのです。旧長浜市域における繭の収繭量のピークとされる明治43年(1910)の記録では、養蚕農家の戸数は4487戸で、繭の生産高は7526石とされています。ちなみにこの年の農家全体の戸数は3557戸であることから、農家ではない家庭でも養蚕業が営まれていた事がうかがい知れます。
このような養蚕普及の背景には、養蚕業に関する教育の推進もその一因としてありました。滋賀県では、明治29年(1896)に滋賀県蚕糸業組合によって現長浜市平方町の徳勝寺を仮校舎に組合立簡易蚕業学校が創立され、近代的な養蚕技術の伝達が図られました。その後、同校は県立へと移管されて明治31年(1898)滋賀県簡易蚕業学校となり、翌年から県立の長浜農学校へと生まれ変わるのです。
江戸時代の浜糸の京都への流通に関しては『長浜市史』第3巻「町人の時代」の200ページから202ページをご参照ください。また、長浜の養蚕教育と長浜農学校については『長浜市史』第4巻「市民の台頭」の46ページから50ページなどをご参照ください。
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