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(1)伊勢物語 1冊
縦25.0㎝ 横17.8㎝
17世紀頃
本阿弥光悦書写
文人にとって、古典を書写することは嗜みであり、平安時代の作品が好まれていた。
『伊勢物語』(作者不詳)は平安時代の成立とされ、在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)を思わせる貴族が主人公となる和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。「むかし男ありけり」の冒頭句で始まる有名な文学作品として知られる。
本阿弥光悦(1558-1637)は流麗な定家流で書き上げており、室町~安土桃山~江戸時代の文化活動をリードし、堂々と走り抜けた人物の姿が垣間見られる。
本阿弥光悦は、室町~江戸時代の芸術家。京都三長者(後藤・茶屋・角倉(すみのくら))に比肩する富豪で、代々刀剣の鑑定(めきき)、磨礪(とぎ)、浄拭(ぬぐい)を家職とした本阿弥家に生まれる。角倉素庵(そあん)(1571-1632)に協力して出版した嵯峨本の『方丈記』、『徒然草』や俵屋宗達(生没年不詳)の下絵に揮毫した歌巻・色紙、さらに蒔絵・茶碗などは、当代の日本文化の花と讃えられる。元和元年(1601)、徳川家康から洛北鷹峯(たかがみね)(現京都市北区)の地所を与えられ、家職は養嗣子光瑳(こうさ)に譲り、同地へ移住し芸術の里を築いて、創作(主に作陶)・雅遊の晩年を送った。
近衛信尹(のぶただ)(1565-1614)、松花堂昭乗(しょうじょう)(1582?84?-1639)とともに「寛永の三筆」と讃えられ、亡くなった後には「天下の重宝」と惜しまれた。代表作に「舟橋蒔絵硯箱」(国宝)、白釉陶器碗の「不二山」(国宝)、赤楽茶碗「赤楽の雪峰」(重文)がある。光悦は、林羅山、板倉重宗、茶屋四郎次郎(しろじろう)、尾形宗柏(そうはく)、古田織部、前田利家、楽常慶(らくじょうけい)らとの親交があった。
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(2)秋景山水図 1幅
縦117.4㎝ 幅32.4㎝
18世紀頃
亀田鵬斎筆 (初公開)
秋の日の山河の様子を描いたもの。山上には楼閣が見え、河川には小船が走っている。川辺の木々や遠方の山々を、墨の濃淡を使い表現し、緩やかな筆のタッチであることが分かる。
亀田鵬斎(1752-1826)は、陽明学者として知られる。江戸神田(現東京都千代田区)の出身。名は長興(ながおき)、字は国南、公龍、通称は文左衛門、号は鵬斎、善身堂。井上金峨に学び、江戸学界の「五鬼の一人」と呼ばれ、下谷金杉(現東京都台東区)に私塾を開き経学や書を教えた。しかし「寛政異学の禁」(朱子学以外の教授を禁止)で弾圧を受け、私塾は閉鎖となった。
その後は酒浸りの生活となり、貧困するも庶民たちから「金杉の酔先生」と親しまれた。貧困生活から脱出するため、友人の酒井抱一や谷文晁(ぶんちょう)(1763-1840)をたより、彼らは「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。各地を旅し、文人や粋人らと交流した。そして風格ある特異な詩と書で評判となり、鵬斎は豪放磊落な性質で、学問は見識が高く、天明3年(1783)の浅間山大噴火では難民救済のため、すべての蔵書を売り払った。著書に『善身堂一家言』等がある。
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(3)芭蕉像図 1幅
縦28.0㎝ 横124.0㎝
19世紀頃
酒井抱一筆 (初公開)
頭巾と外套をつけて旅衣装をまとい、杖を倒して丸傘を持って座る、まさに奥の細道の旅路を想起させる芭蕉の姿を描く。賛は、貞享3年(1686)『蛙合(かわずあわせ)』に収録された代表的な芭蕉の句「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」を「ふるいけや 其後 とひこむ かわつなし」とパロディー化したもので、儒学者・亀田鵬斎による草書。この句は、江戸時代から良く知られ、井原西鶴門下の水田西吟(さいぎん)(?-1709)も、同年に発刊した『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」と紹介している。
酒井抱一(1761-1828)は、姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の第4子として江戸で生まれた。若くして各種の武芸を修め、元服後は俳諧・和歌・能・茶など文人墨客(ぼっきゃく)との交わりを深め、武家の身分ながら町人的生活と性格を形成した。寛政2年(1790)、西本願寺文如(もんにょ)のもとで出家し、浅草千束に移住して抱一と号した。落髪隠居後は、本格的な文人生活に入り、絵画を専職とした。長崎派や浮世絵を学んだが、のちに光琳画の復活者たる画技を確立し、尾形光琳と同じく大画面の製作を行った。
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(4)打拳図(うちこぶしず) 1幅
縦35.0㎝ 横53.5㎝
19世紀頃
十返舎一九筆 (初公開)
扇面に描かれたものを軸装化している。2人の男が会話している様子を描き、1人は大きく口をあけている。これは、一九の作品によく見られる表現で、開いた口が塞がらないという意味。賛も一九自身によるもので、人生訓を説いている。洒落のきいた江戸時代の1コマ漫画のようである。一九は、戯作だけでなく滑稽本の挿絵や画、狂歌なども多数手掛けており、その才能の一端をうかがい知ることができる。
十返舎一九(1765-1831)は戯作者として知られ、本名は重田貞一、幼名市九。十返舎とは香道の黄熟香(おうじゅくこう)の十返しにちなむ。駿河府中(現静岡県)同心の子とも伝えられる。大坂町奉行の配下として大坂(現大阪府)へ赴いたが、後に武家奉公を辞して江戸に出、山東京伝の知遇を得て戯作家となった。代表作には『膝栗毛(東海道中膝栗毛)』『続膝栗毛』などがある。
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(5)蝶紅葉図 2幅
縦125.0㎝ 横24.5㎝(蝶図)
縦124.0㎝ 横24.0㎝(紅葉図)
19世紀頃
大田垣蓮月筆 (初公開)
二幅の作品で、秋の日に散る紅葉の葉と、その上をつがいで緩やかに飛ぶシジミチョウを描いたもの。赤い紅葉と黄色い蝶を斜め方向に描いて、空間の高さと風で舞い落ちる紅葉の葉を表現する。
大田垣蓮月(1791-1875)は、伊賀上野藤堂家分家の娘と伝える。名は誠(のぶ)。生後直ちに京都の大田垣伴左衛門光古(てるひさ)(知恩院門跡)の養女となった。丹波亀山城(現京都府亀岡市)に勤仕して、武芸に長じ、六人部是香(むとべよしか)(1798-1864)、上田秋成(1734-1809)、千種有功(ありこと)(1796-1854)に師事し国学や詩歌を学んだ。
不幸にして家族を失い、出家して蓮月と名乗った。養父の死後には知恩院を去り、岡崎村(現京都市左京区)に移った。岡崎では和歌諷詠(わかふうえい)を事とし、陶芸により生計をたて、自作の陶器に自詠の和歌を釘彫りで施し「蓮月焼」と呼ばれ、高雅な趣向から人気を博し、贋作が出回るほどであった。
幼少期の富岡鉄斎(1836-1924)は侍童(じどう)(貴人の側に仕えるわらべ)として蓮月と暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。
代表作に『海人の刈藻(かるも)』『蓮月式部二女歌集』『蓮月集』がある。
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(6)荷花世界図(かかせかいず) 1幅
縦127.0㎝ 横25.2㎝
19世紀頃
渡辺崋山筆
水墨画で力強く蓮の花が描かれ、周りには蓮の葉が重なり合って池に浮かんでいる。上方には茎に乗り羽を休める蝶の姿を配す。また、岸側からは茎や葉が池に向かってのびていることも観察できる。池の水面は、墨を使わず空白の白で表現している。まさに、初夏の自然風景を静かに表現したとみられる。墨の濃淡を活かした表現が味わい深い。
渡辺崋山(1793-1841)は、文人画家で蘭学者。三河渥美郡の田原藩家臣の子として生まれた。小藩の上、父が病身のため、極貧生活を送ったという。家計を助けるために画を学び、儒家たちから漢学も学んだ。写実的な洋画の画法を学び、洋画への傾倒から蘭学を学ぶ素地を作った。崋山は、天保3年(1832)に年寄役末席(家老職)となり、藩政改革にも尽力。崋山は、開国論者であり高野長英ら蘭学者を招いて蘭書の翻訳を依頼し、新知識の吸収につとめ、海外事情を研究。天保10年(1839)には『外国事情書』をまとめ「蘭学にて大施主」という世評を得た。彼の学識に集まる知識人は、幕臣と儒者であったが、蛮社の獄で投獄され在地蟄居を命ぜられた。蟄居中に画業に専念したが、門人たちが崋山の画を密かに三河、遠州で売りさばいていたことが、老中水野忠邦に探知されたと誤信し、主君に迷惑がおよぶことを恐れ、自刃した。
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(7)擬南蛮式 1口
縦7.3㎝ 横4.2㎝
19世紀初頃
青木木米作 (初公開)
茶銚とは、煎茶道で湯を沸かす道具のこと。涼炉(りょうろ)の上に乗せ、炭火で熱して使用する。擬南蛮式とは、南蛮の陶器に似せた作品であり、南蛮とは現在の東南アジアのタイ北部・カンボジアから中国広東省の地域を意味する。この地域では、粗雑な素焼陶器を日常雑器として用いており、室町時代から茶器として我が国に輸入され、茶人たちに珍重された。この作品は、轆轤(ろくろ)回転撫でにより、仕上げられているためシャープさが見られる。また、南蛮の素焼き陶器に似せるため、低温度の焼成を行っている。
青木木米(1767-1833)は江戸時代を代表する陶工・文人画家である。京都に生まれ八十八(やそはち)と称し、この名をとって木米と名乗る。木米という号の他、古器観、また中年より耳を悪くしたことから聾米(ろうべい)とも名乗っている。
絵画制作にもその才能を発揮し、京都・宇治の風景を俯瞰的に鮮やかに描き出す≪兎道朝暾図(うじどうちょうとんず)≫(重文)をはじめとする作品を残している。天保4年(1833)京都にて没するが、木米の墓碑には「識字陶工木米之墓」とある。永楽保全、仁阿弥道八らとともに、「京焼の幕末三名人」と称された。木米はすぐれた陶工でもあったが、すぐれた知識人・文人でもあった。
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