薮田月湖(やぶたげっこ・不詳~1856)
現長浜市高月町東物部出身と伝える。通称民蔵、別に豊蔭(ほういん)と号す。幼い頃、京都に出て四条派岡本豊彦の門に入って絵を学び、晩年は帰郷して東物部の仏善寺に住んで活動した。彼は、当時の仏善寺の住職恵洞(えどう)の叔父にあたる。
天保10年(1839)には木之本地蔵院浄信寺の大絵馬「巴御前図」を描き、嘉永4年(1851)には浄土真宗仏光寺派中興の祖・了源(りょうげん)上人の絵伝を描いて仏善寺に納めた。安政3年(1856)に没し、仏善寺に葬られた。また月湖は、橘雪嶹の子雪山や東物部の絵師戸田北堂(とだほくどう)らに絵の手ほどきをしたという。 |
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2 岩城舛屋前の賑い図 屏風 |
2 岩城舛屋前(いわきますやまえ)の賑い図 屏風
1隻 天保10年 (1839) 紙本著色
本紙:102.3cm×352.0 cm、
表具:134.1 cm×359.2 cm
個人蔵
江戸麹町にあった呉服店「岩城舛屋」と店前の路上の賑わいの様子を描いたもの。原作は、菊川英山(きくかわえいざん)画の3枚続きの錦絵「岩城舛屋前の賑い」(1820~30年頃作)。原作をもとに、薮田月湖が当初は「襖絵」4面として大きく描き、のちに「六曲屏風」に改装された。
江戸時代後期に流行した玉虫色(明るい緑色)の口紅をした女性たち、後に第6代横綱になる人気力士小柳長吉(こやなぎちょうきち)、噺家の三笑亭可上(さんしょうていかじょう)
が描かれていることなど興味深く、「岩城舛屋」の繁盛と当時の風俗をよく伝えている。
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■岩城舛屋とは
「岩城舛屋」は、日本橋の越後屋(現三越)よりも栄えた当時随一の呉服店。全盛期には11棟の土蔵と従業員500人を擁したという。しかし、江戸末期から明治初期にかけて、官軍に接近をした越後屋(三越)とは対照的に、幕府側の財政を担った岩城家は衰退し、明治17年に「岩城舛屋」は閉店となった。 |
■本作製作の背景
江戸時代後期、高月の農家出身の徳兵衛(とくべえ)が、江戸に出て「岩城舛屋」に奉公した。しかし徳兵衛は病のため帰郷し、文政11年(1828)33歳の若さで亡くなった。本作は、没後11年を経た天保10年
(1839)、兄伊右衛門(いよもん)が徳兵衛の菩提を弔うため、地元の画人薮田月湖に依頼し、かつて勤めていた「岩城舛屋」の錦絵をもとに襖絵を描かせたという。 |
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小森竹塘(こもりちくとう・1855~1939)
現長浜市高月町柏原出身。名は與左衛門(よざえもん)。幼い頃から絵を好み、14歳から4年間、東物部の戸田北堂に絵を学び、また彦根の吉田雪斎(よしだせっさい)に山水画をの手ほどきを受けた。19歳の時、現長浜市山階町に住む岸派の画家中川耕斎に師事した。
彼は算法(数学)にも長け、明治初期から税務署・村役場などに勤務し、また明治30年(1897)の渡岸寺観音堂十一面観音像の国宝指定に際しては、観音堂再建事業にも貢献した。その間も竹塘は画作に励み、明治28年の西京博覧会をはじめ、多くの画会・展覧会に出品したびたび入賞した。
また彼は旅を好んで全国をめぐり、求めに応じて筆を執り各地に多数の作品を残した。彼の弟子は10数人を数えたという。昭和14年(1939)85歳で没した。
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5 琴棋書画図 襖(右から、琴・棋・書・画) |
5 琴棋書画図(きんぎしょがず) 襖
4面 年不詳 紙本墨画淡彩
本紙:134.2cm×60.6cm
表具:177.8cm×92.8cm
個人蔵
「琴棋書画」とは、文字通り琴の演奏、囲碁、書道、画作のことで、この四芸は文化人のたしなみとされた。画題としても人気があり、中国・朝鮮で好まれ、日本でも数多く描かれた。
襖の両面に絵があり、表は琴棋書画図、裏面には同じく竹塘画の花鳥図が描かれている。竹塘は85歳で亡くなる前年まで画作を行っていた。現在残されている彼の作品は、大正時代60歳代後半以降のものが多く、本作も年紀は無いものの、その頃の作であろう。
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片山雅洲(かたやまがしゅう・1872~1942)
現長浜市高月町西物部出身。名は清次郎。はじめ「雲峯(うんぽう)」と号し、京都に出て「徹巌(てつがん)」、その後上京して「雅洲(がしゅう)」と称した。また別号に「璞(ぼく)」「画魔(がま)」などがある。幼い頃、隣村東物部の戸田北堂(とだほくどう)に絵の手ほどきを受け、23歳の時、京都に出て四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)、次いで今尾景年の門に入った。別号の「画魔」は、床に紙を広げて這いつくばって描くことから「ガマ(ガマガエル)」とあだ名を付けられ、本人も気に入って「画魔」の字を宛てて名乗ったという。2年続けて美術展で入選し26歳の時、上京。東京に出て橋本雅邦に入門。家業(農業)の都合により早く帰郷した。
郷里での活動には、布施巻太郎(ふせまきたろう)(布施美術館創設者)をはじめ、京都建仁寺管長竹田黙雷(たけだもくらい)、湖東永源寺管長芦津石蓮(あしづせきれん)などに多方面で支えられて画作を続け、昭和17年(1942)71歳で没した。 |
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10 鬼神図 |
10 鬼神図
1幅 明治30年代か 絹本著色
本紙:114.2cm×51.8cm
表具:169.8cm×65.3cm
個人蔵
角が生えた恐ろしい形相の鬼神が、黒雲中から飛び出す様を描く。両手を上にあげ、右手には独鈷杵(とっこしょ・密教法具の一つ)を執り、条帛(じょうはく)・天衣(てんね)・腰裳(こしも)をまとう。露出する肌には、ぼかしの技法である隈取(くまど)りを多用し、見る者にひときわ強い印象を与えている。
師橋本雅邦の描いた「風神雷神」(広島県立美術館蔵)にインスピレーションを受け、雅洲自身の作品として描いたものであろうか。
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