高月観音の里資料館
 
     
 
  特別陳列
 「庶民のホトケ ―湖北の地蔵菩薩―
 
                                         


                       期間: 平成27年10月28日(水)-12月6日(日)
 
洞戸自治会地蔵(正面) 
 
 開催趣旨
 高月観音の里歴史民俗資料館では、標記の展覧会を開催します。
 湖北地方は、奈良・平安時代にさかのぼる数多くの仏像を伝える文化財の宝庫であり、特に観音像が多いことから「観音の里」と呼ばれています。これらのホトケたちは、村々の小堂にひっそりと安置され、民衆によって守られていることに特色があります。
 観音菩薩と並んで民衆に愛されてきたホトケに地蔵菩薩があります。地蔵菩薩も古くから庶民の身近な存在として親しまれ、子安地蔵・延命地蔵などとして広く信仰を集めてきました。
 この企画展示では、湖北地方における地蔵信仰とその美術を展示紹介します。湖北地域の歴史・信仰・文化等を再確認していただくとともに、本展示が「ホトケを守るこころ」を未来へとつなげるための一助になれば幸いです。

1.絹本著色十王像(けんぽんちゃくしょくじゅうおうぞう) 10幅
 附(つけたり) 絹本著色地蔵菩薩像(けんぽんちゃくしょくじぞうぼさつぞう) 1幅
十王像:各縦106.0cm×横47.8cm
地蔵像:縦101.6cm×横42.3cm
南北朝〜室町時代、長浜市指定文化財
神照寺(じんしょうじ)蔵(長浜市新庄寺町)

 救済者である地蔵菩薩の対局として、死者の忌日における十王の裁判を1幅ずつに分けて描く。それぞれ十王を中心に冥官と鬼形の獄吏(ごくり)を配し、亡者を折檻する情景を示す。この本画は中国宋・元時代の舶載品をもとにわが国で制作されたものであろう。
 一方の地蔵菩薩像は、剃髪相(ていはつそう)で袈裟(けさ)を着け、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を執り、地獄で死者を裁く十王と対照的な六道(ろくどう)救済者としての姿を表す。本画は十王像と一具のものと考えられ、頭上に天蓋(てんがい)を配し、平らな頭頂と湾曲した髪際(はっさい)、截金(きりかね)による衣の文様などが特徴。
※六道=地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人間道・天上道の6つの世界。
 
   
地蔵菩薩像   十王像
           
2.木造地蔵菩薩立像(もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう) 2躯(く)
鞘仏(さやぼとけ):像高100.3cm、江戸時代
胎内仏(たいないぶつ):像高51.6cm、室町時代
洞戸(ほらど)自治会蔵(長浜市高月町洞戸)

 洞戸の地蔵堂に安置される地蔵菩薩立像。鞘仏は、村の老人が自らの腹を切り地蔵菩薩立像を守ったという伝承に基づき、昔から村人により守られてきた像を納めるために作られた。像の背中に蓋板(ふたいた)がはめられており、像内は胎内仏を納入する工夫が凝らされている。
 鞘仏の中に納められている地蔵菩薩立像(胎内仏)は、ヒノキ材の一木造で、右手先を欠く。衲衣(のうえ)には墨で簡素な文様が描かれる。信長による兵火で堂が焼ける際、一人の村の老人が自らの腹を切り、この仏を腹に入れ戦禍から守ったと伝わる。
 
   
  手前:胎内仏
奥:鞘仏
  鞘仏背面
           
3.木造地蔵菩薩立像 1躯
像高72.5cm、平安時代後期
円行寺(えんぎょうじ)蔵(長浜市高月町西柳野)

 西柳野地蔵堂に安置される地蔵菩薩立像。表面は近世〜近代の修理により厚い彩色で覆われているが、衣文(えもん)の彫りは浅く簡略化・形式化しており、像の奥行も浅く平安時代後半の制作と考えられる。湖北では、この像のように平安期の仏が幾度もの修理を経て大切に守り伝えられている。
 
 
  企画展
 「雨森芳洲と朝鮮通信使〜未来を照らす交流の遺産〜
 
                                         


                        期間: 平成27年9月2日(水)-10月25日(日)

 
雨森芳洲像 芳洲会蔵(高月観音の里歴史民俗資料館保管) 
 
 開催趣旨
 国交正常化50周年の今年、日本と韓国が手を携えて、共同提案の形で、「善隣交流の歴史〜朝鮮通信使に関する記録〜」をユネスコの記憶遺産に登録申請しようとする取り組みが進められています。その登録リストの核となる史料の一つは、芳洲会が所有し長浜市が管理団体となっている重要文化財「雨森芳洲関係資料」(高月観音の里歴史民俗資料館)です。
 本市では、このユネスコ記憶遺産登録推進事業として、企画展やシンポジウム等を開催し、朝鮮通信使の概要や歴史的意義を再確認し、郷土の先人・雨森芳洲の思想や果たした役割、そして思想史や国際関係史の中での芳洲の実績を明らかにし、芳洲が目指した「誠信」の心を全国に向けて発信します。
         
朝鮮通信使瓦人形
1点 
近江八幡市蔵

 通信使を模した大型の瓦人形で、両手の状態からみると、旗持ちか蓋持ちの人物であろう。顔の表情・帽子・服装の襞、留めた帯など丁寧に作られ、黒・青・赤の泥絵具と金を使って彩色される。当時の鬼瓦作りの職人が顧客向けの贈り物として製作したもので、宝暦14年(1764)の第11回通信使をモデルにしたものと考えられている。
   
老子図 雨森芳洲賛
1幅 掛幅装 
個人蔵

 朝鮮の絵師が描いた老子図に、芳洲が賛を付したもの。芳洲が亡くなる前年、宝暦4年(1754)87歳の時のもので、芳洲に替わり孫の涓庵が書している。芳洲の引首印や雅印とともに、涓庵の印も捺されている。通信使は、この年に来日していないことから、贈られた後年に賛じたものであろう。
 
 
  朝鮮通信使詩巻 朴矩軒ほか筆
1巻 巻子装 
高月観音の里歴史民俗資料館蔵

 高月町井口出身の松井(まつい)原泉(げんせん)(1698〜1762)は、京都古義堂伊藤東涯に学んだ儒学者である。17歳の時、膳所藩に仕官し、寛延元年、第10次通信使来日の際には藩命により、膳所城下にて通信使接伴の任につき、製述官朴(パク)敬行(キョンヘン)(矩軒(クホン))、正使書記李(イ)鳳煥(ボンファン)(済庵(チェアム))、副使書記柳(ユ)逅(フ)(酔雪(チュイソル))、従事官書記李(イ)命啓(ミョンゲ)(海皐(ヘゴ))ら文人4名と詩文の唱和を行った。
 
 
  
琵琶湖之図
1幅 掛幅装 
滋賀県立琵琶湖文化館蔵

 琵琶湖畔をゆく朝鮮通信使の行列が描かれた、唯一の絵画資料。画面中央に大きく琵琶湖を描き、それをとりまく景観をパノラマ状に描く。右下には、さざなみ打ち寄せる琵琶湖畔の港(石場小舟入=大津市)と東海道の家並み、さらに街道を南へ向けて進む朝鮮通信使の行列が描かれる。行列の先頭には槍や矛、戟などが見え、続いて「清道」「令」旗を持つ者、騎馬の童子(陪童子)、冠をいただき騎馬で進む高位の人物、笠子帽を被り徒歩で進む者など、通信使一行の姿が描かれている。
 雄大な琵琶湖の風景を大胆な構図で表現しながら、朝鮮通信使の道行きを強く意識して描かれた絵画であり、通信使の琵琶湖来訪を回顧、また顕彰する目的で描かれた作品と考えられる。
 
 
  企画展・記念シンポジウム
 「雨森芳洲と朝鮮通信使 〜未来を照らす交流の遺産〜
 
                                    


                               期間: 平成27年10月17日(土)
 
 
 
 事業趣旨
 江戸時代に12回来日した朝鮮通信使と日本人との交流は、単に日朝間の和平だけでなく、東アジア地域の安定にも寄与した。その底流には、長浜の先人・雨森芳洲が説いた「誠信(誠意と信義)」の心があった。このシンポジウムでは、専門家等によるその基礎となる知識の講演と討議を市民等が聴講できる場を設け、朝鮮通信使の概要や歴史的意義を再確認し、雨森芳洲の思想や果たした役割、そして儒教や国際関係史の中での芳洲の実績等を明らかにしたい。
 
 
 
※参加申込みは不要です。直接会場へお越しください。 
 
 
  特別陳列
 「湖北考古学の黎明期−パイオニアたちの発見−」
 
                                         


                        期間: 平成27年7月8日(水)-8月30日(日)
 
 開催趣旨
 長浜市の遺跡は829か所を数え、その数は県内随一です。遺物の年代も、縄文・弥生・古墳時代から近世に至るまで幅広く、現在も土地開発に伴う行政発掘などによって発見が続いています。
 このような埋蔵文化財の発掘・採集は、湖北地域においては明治期から行われ、大正期の郡志・町史編纂の機運と連動して盛んになっていきました。そして、その現場には考古学の専門家とともに地元の郷土史家や採集家の姿がありました。
 この特別陳列では、湖北地域の考古学・埋蔵文化財調査の黎明期において、草分けとなった研究者や郷土史家、採集家などを紹介し、先覚者たちの業績を振り返ります。
石之長者(いしのちょうじゃ)木内石亭(きうちせきてい)全集
紙本印刷、和綴冊子装、近代(昭和11年・1936)
高月観音の里歴史民俗資料館蔵

中川泉三が郡志編纂で収集した木内石亭(1724〜1808)の遺物・遺文を編集し、財団法人下郷(しもごう)共済会が発行した全集。非売品として研究者などに配布した。栗太郡(現:草津市)出身の石亭は奇石の収集家で、考古学の祖と仰がれる。題字は徳富蘇峰(とくとみそほう)、序文は浜田青陵(はまだせいりょう)。
   
耳環(じかん) 6点/管玉(くだたま) 2個
松尾宮山古墳群出土(長浜市高月町松尾) 覚念寺蔵
耳環:外径3.3×管径0.8/外径3.2×管径0.8/外径2.6×管径0.8/外径2.4×管径0.6
管玉:径0.8×長さ2.5/径0.9×長さ2.5(古墳時代)

 松尾宮山古墳群(県指定史跡)の石棺から明治期に採集された装身具。土器とともに銅製の耳飾りや碧玉(へきぎょく)製の首飾りの一部などが見つかっていて、中川泉三が編纂し梅原末治が古代編を執筆した『伊香郡志(いかぐんし)』にも掲載されている。当時の古墳発見届とともに松尾集落内の覚念寺に保管されている。
 
   
合口甕棺(あわせぐちかめかん) 2口
杉沢遺跡出土(米原市杉沢) 長浜城歴史博物館蔵
大:口径32.5×高さ41.0/小:口径31.5×高さ35.5(縄文時代晩期)

 2つの甕の口を合わせ、中に遺体を埋葬したもの。杉沢遺跡は大正13年(1924)に中川泉三が石器や石斧を紹介し、昭和13年(1938)に小林行雄がこの甕棺を発掘して全国的に有名になった。小江慶雄もまた昭和29年(1954)に別の合口甕棺を発掘している。
 
 
   
深鉢形(ふかばちがた)土器 1口
葛籠尾崎(つづらおざき)湖底遺跡出土(長浜市湖北町尾上) 個人蔵
口径29.3×高さ40.8(縄文時代中期)

 大正13年(1924)に最初に発見された土器の一つ。琵琶湖の水深70m近くから漁師の網にかかって引き上げられた。この遺跡の土器は縄文から古墳時代までまんべんなく出土し、完形品が多いことが特徴で、昭和34年(1959)には小江慶雄が日本で初めて考古学調査にスキューバ潜水を取り入れた。
 
 
   
内行花文鏡(ないこうかもんきょう) 1面
塚原古墳群出土(長浜市醍醐町) 浅井歴史民俗資料館蔵(八雲書院)
面径9.5(古墳時代)

 昭和25年(1950)に浅井中学校の教諭によって横穴式石室から採集された。内区の文様が弧形によって形作られたもので、中国鏡を模した国産鏡とされる。発見当初は欠失した部分もあったという。八雲書院が設置された浅井中学校では、田中礎の意志を受け継いだ教諭や生徒が、考古遺物を発見しては八雲書院の資料として追加していった。
 
 
   
 
   
中村林一(りんいち)『大福帳』 125冊
紙本墨書 冊子装 現代 
長浜城歴史博物館蔵(中村林一コレクション)
縦13.9×横19.9

 昭和28年(1953)3月から50年(1975)12月まで書き溜められた、中村林一の調査・研究ノート。考古資料のみならず、もっとも得意とする古文書や金石銘、美術工芸品、花押・印章までが、忠実な図解と緻密な墨書で所狭しと記される。湖北地域の郷土史家のリーダーであった情熱と情報量がうかがわれる。
 
 
※法量の単位はすべてcm(センチメートル)になります。