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「交隣提醒(こうりんていせい)」
正徳4年(1714) 1巻
横27.5p×縦17.6p
雨森鵬海著・筆 新井白石筆
父芳洲に同行して瀬戸内海を航行中に賦(ふ)した、長男・鵬海の漢詩30首を収めている。新井白石の批点があり、巻末には七絶形式で白石が芳洲と初対面した日にことよせ、息子鵬海の詩を称えた白石の言葉が記されている。鵬海17歳、白石58歳であった。
白石と芳洲は同門(木下順庵門下)でありながら、正徳元年の朝鮮通信使来日の際には、幕府儒官と対馬藩儒という立場の違いから激しく対立もしたが、プライベートではお互いを認め尊敬し合う学者同士であったことが偲ばれる。 |
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「読書論(どくしょろん)」
寛保元年(1741) 1幅
横53.0p×縦126.5p 芳洲著、雨森涓庵筆
時に芳洲の孫・涓(けん)庵(あん)は15歳。芳洲は嫡孫の「志学」の齢にあたり、かつて作った「読書論」を書させたものか。
なお本史料は、『芳洲先生文抄』によれば、享保18年(1733)芳洲が66歳の時に作ったものであることがわかる。
論語を引き、「学んで思わざれば則(すなわ)ちくらく、思うて学ばざれば則(すなわ)ちあやうし」と、学ぶこととともに自ら考えることのバランスが大事であることなどを説いている。。 |
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「橘窓茶話(きっそうさわ)」
原著・延享4年(1747) 2冊
@横18.2p×縦24.7p、
A横18.3p×縦24.5p 芳洲著、松浦桂川筆
芳洲の代表的漢文随筆。外孫・松浦桂川(けいせん)(芳洲の次男・松浦龍岡(りゅうこう)の子)が後年書写したもの。
序文末には芳洲の出自について「祖籍、近江浅井家の豪族、かつて雨森を以て采邑(さいゆう)と為す、因みて氏とすと云う」とあり、芳洲の先祖が当地出身であることを裏付けている。
また、冒頭で芳洲は、「余、平素、書生に掲げて曰く、学は人たることを学ぶゆえんなり。自ら一生得るところ、ただこの一句あり」と、学問の意義は、人として生まれてきて、どう生きるべきか、何をなすべきかということを究明することであると説いている。
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「芳洲詠草(ほうしゅうえいそう)」
1巻 江戸時代中期
24.2cm×122.0cm 重要文化財
芳洲会蔵(高月観音の里歴史民俗資料館保管)
寛延元年(1748)〜宝暦4年(1754) 22冊 芳洲著・筆
芳洲は晩年81歳の頃より和歌を学びはじめ、『古今和歌集』の千遍読みと和歌一万首の詠草を志した。
千遍読みは、寛延元年12月晦日より始め、読むペースは次第に速くなり、翌年8月28日に達成した。
また一万首の詠草は、寛延元年8月23日に開始し、同3年8月22日にはすでに1万首に達し、さらにその後も亡くなる前年、87歳の時まで精力的に詠み続け、その作は2万首を数える。
老境においても向学心の絶えることない最晩年の芳洲の姿が垣間見える。 |
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