高月観音の里資料館
 
     
 
 

 
特別陳列
 「布施美術館名品展10
  
一医師が集めた近江ゆかりの至宝~神仏・武家・書画~



                   期間: 令和2年3月11日(水)-6月1日(月)
                            ※会期は延長になりました。

開催趣旨
 長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎(1881-1970)が収集した富岡鉄斎(1836-1924)をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料という数多くの貴重なコレクションを収蔵する美術館です。
 初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。
 今回は、所蔵品の中から、近江・滋賀県ゆかりの資料を公開します。
本展を通じて、布施コレクションの価値を知っていただくとともに、布施巻太郎の心にふれ、あわせて郷土文化を再発見する契機にしたいと思います。

展示内容
① 近江のカミとホトケ
「十誦律巻第五十一(石山寺一切経)」(滋賀県指定有形文化財)、一休宗純の山水画や「寂室語録」など古代・中世の貴重な資料を紹介します。
② 近江の歴史をたどる(古文書・書跡)
湖南の戦国大名六角氏が定めた「分国法」として知られる「六角氏式目」(滋賀県指定有形文化財)や、浅井亮政書状を紹介し、戦国の近江を考えます。また、大名として出した小堀遠州の年貢免状(年貢の請求書)や、幕末に大老として活躍した井伊直弼の書跡を紹介します。
③ 近江の文人・画人の絵画
幕末の志士に協力した板倉槐堂、近代の画人として知られる富岡鉄斎、それに高月町西物部出身の片山雅洲の絵画や、高畑町出身の小野湖山の書を紹介します。


主催:高月観音の里歴史民俗資料館
協力:一般財団法人 布施美術館
展示品: 総数:26件27点
             
       
 おもな展示資料
 
(1)十誦律巻第五十一
縦26.7㎝ 横1542.8㎝ 神護景雲2年(768)
1巻 滋賀県指定有形文化財

 仏教教団における規則や作法、戒律などをまとめた律書の一つ。全体が十誦(10章)に分けられているので「十誦律」という。小乗仏典の1つで、律としては最も完備したものといわれ、全61巻からなる。中国では、翻訳当初はよく講究されたが、四分律の研究が盛んになるにつれて衰えた。
 この写本は、神護景雲2年(768)5月13日、称徳天皇が聖武天皇の供養のために発願書写させた一切経のうちの一巻である。別名「神護景雲経」とも称され、聖武天皇の勅旨一切経(天平6年:734年)と対比されるものである。正倉院には742巻が伝わっているが、本巻のように市井に流出し諸家に伝わるものも少なくない。
 本経は、巻首に「石山寺一切経」の無廓黒印を押しているところから、もとは近江を代表する古刹の石山寺に伝来したことがわかる。ゆったりとした肉太の書風に特徴があり、比較的保存も良く、奈良写経の代表的な遺品として貴重である。
   
(3)永源寺寂室語録
縦23.1 ㎝横16.8㎝ 永和3年(1377) 1冊


 正しくは『永源寺寂室和尚語録』である。寂室は、鎌倉時代の臨済宗の僧で元光のこと。元光は、山城(京都府)三聖寺の無為昭元に師事。元応2年(1320)に入元し、各地を歴参し、嘉暦元年(1326)に帰国した。後、近江守護佐々木氏頼創建寄進の永源寺の開山となった。
 本書は、永源寺での寂室の法話や、日常会話、示衆法語、書簡、道号頌でまとめられている。木版刷りで、欄外に後世の僧と考えられる人物の墨書がみられ、学習資料として用いられたのだろう。
 元光は、幽棲(外出せず寺にとどまった)、俗塵(俗世間のわずらわしいこと)を避け、大寺名刹(大きな寺と名高い寺)を好まず、終生黒衣の平僧で通した。
   
 (5)蓮華会頭役差状
縦26.3㎝ 横39.5㎝
天文21年(1552) 6月16日 1通

 竹生島弁才天の祭礼・蓮華会(れんげえ)の頭役(とうやく)の指名を、竹生島から知らせる文書で「差状」と呼ばれるもの。中世の差状には、文書形式に共通性があり「竹生嶋大神宮寺蓮華会頭役之事」という事書をもち、全面に8・9顆の朱文方印を押す。竹生嶋大神宮寺(現竹生島宝厳寺)側からの発給主は、小寺主・都維那・権別当・修理別当・上座・寺主の6名連署となる。
 蓮華会は、中世から近世において浅井郡ゆかりの領主と村落上層により担われてきた祭礼である。
 本状は、後頭のもので「東郡内保藤介方」とあり、東浅井郡内保(現内保町)の村落上層と考えられる。また同年同日付けの、先頭役の浅井西郡孫左衛門尉のものが知られていたが、今回の新発見により、先頭と後頭の差状が揃ったことになった。蓮華会を知る上で貴重な資料。
※蓮華会祭礼とは
 祭礼の内容は、4月、頭人が、竹生島惣山を代表し蓮華会の寺側の責任者とされる「四人衆」へ挨拶に赴く。5月1日には、頭人の世話する宿坊(塔頭の一つ)で「月渡振舞」の宴がもたれ、大般若経の転読がなされる。6月1日に、榊と御正体(鏡)が頭役の家に迎え入れられ、15日まで頭人夫婦は精進し、御正体の納められた仮屋へ供物を捧げる。6月上旬に、宿坊で管弦師の振舞があり、14日神前で舞楽がなされ、15日の船渡御を迎え島で祭礼がなされる。

   
(6)浅井亮政書状
縦28.0㎝ 横41.8㎝ 室町時代後期 1通

 浅井亮政(?~1542)は、京極氏内部の権力争いと、それに乗じて支配権を奪った上坂氏の専横に対して不満を抱く京極氏家臣層を糾合して、江北三郡(伊香・坂田・浅井)の支配権を確立し、浅井三代の基礎を築いた。
 本状は、浅井郡当目(とうめ)村(長浜市当目町)の地侍の村山次郎右衛門尉宛の書状。書状には弥十郎の配当分5石を、村山氏の所領から差し出すように命じ、この内容を三田村千法士にも伝えるよう命じている。三田村氏は当該地の草野庄周辺で代官を務めていたと推定される。
   
(7)六角氏式目
縦27.8㎝ 横20.8㎝ 江戸時代 1冊
滋賀県指定有形文化財

 六角氏式目は、近江南半の領主六角氏が永禄10年(1567)に制定した分国法。六角氏は、永禄6年(1563)に当主六角義弼が重臣の一人後藤賢豊父子を殺害した事件を発端とする観音寺騒動が勃発した。六角氏式目は、このような状況下に制定されたもので、本文首部にいう「当国一乱」とは、観音寺騒動を指している。
 六角氏式目は、重臣たちが起草上申し、六角氏が承認するという手続きを経て制定されており、最大の特徴は、法の遵守を誓う起請文(神仏に誓約する言葉を書き入れた誓約書のこと)を、主君六角氏と重臣の間で取り交わすという形式をとっていることである。これは、当主六角氏と重臣・家臣の権利保護のため互いに規制しあい、また利害の対立を捨てて協調していることを示す。中世日本の先進地域である近江国では、百姓の惣村(自治村落のこと)的結合が発達し、これに対抗するために領主層の団結が必要とされたのである。条数は67か条で、所領相論、年貢収納、刑事犯罪などの条項がある。六角氏式目の原本は残存せず、その写本とのひとつとして書誌学的にも貴重な資料である。
   
(17)山水図
縦138.0㎝ 横48.0㎝
明治時代 2幅対 富岡鉄斎・板倉槐堂筆

 富岡鉄斎と板倉槐堂の合作作品。
 富岡鉄斎(1837~1924)は、近代文人画家の巨匠。布施美術館創始者の巻太郎とは、親交があり、美術館は鉄斎の作品を300点以上収集している。
 板倉槐堂(1822~1879)は、坂田郡下坂中村(下坂町)の旧家下坂家の5男。後に京都の薬商の後継ぎとなり、幕末の動乱の中、志士たちを支援した。鉄斎との交流もこの頃始まったと考えられる。詩書画に優れ、坂本龍馬(1835~1867)に送った「梅椿図」(重文)をはじめ多くの絵画作品を残している。
 賛によると、画面手前の岸辺と松を槐堂が描き、小亭と遠山を鉄斎が描いた。二人の交際は幕末の頃から始まったと考えられ、交友関係は維新後も続いた。最後の元老として名高い西園寺公望(1849~1940)は明治2年(1809)に立命館(立命館大学の前身)を開校するが、この学校の教員として鉄斎と槐堂も招聘されている。
   
(18)琵琶湖舟遊図
縦135.0㎝ 横33.1㎝ 明治3年(1870) 1幅
富岡鉄斎筆

 単調な筆致であるが、よほど楽しかったのであろうか、人物の大振りな身体描写から琵琶湖で舟遊びする様子が生き生きと描かれる。賛(絵画に添えられた詩や文章)は、坂田郡下坂中村(長浜市下坂町)出身の医師であり、幕末の志士とも交流のあった江馬天江(1825~1901)が書いている。賛には、鉄斎、天江のほか、書家の神山鳳陽(1824~1890)、天江の兄である板倉槐堂の4人が、名所で会うたびに詩を題し琵琶湖を舟遊したことが記されている。鉄斎が当時、長浜出身の文化人らと交友を深めていたことがわかる興味深い資料。鉄斎35歳の作。
   
(19)琵琶湖図
縦167.5㎝ 横368.0㎝ 明治19年(1886)
屏風6曲1隻 富岡鉄斎筆

  金地に映える墨色が爽やかな屏風。琵琶湖の南端に近い石山寺から見た、南湖周辺の眺望を描いたもの。右に石山寺境内、中央に見える尖った山は「近江富士」三上山その手前左方に瀬田唐橋、奥の高い山は比良山であろうか。なお、図柄から推して、もとは湖北を描いたものと一双になっていたと考えられる。鉄斎51歳の作。

   
(21)関羽図
縦135.4㎝ 横70.0㎝ 明治26年(1893) 1幅
片山雅洲筆

  関羽雲長(?~220)は、後漢~三国時代の武人・政治家。蜀の照烈帝(劉備玄徳)に仕えた前将軍(官位のこと)で、劉備の義兄弟(劉備・関羽・張飛の3兄弟)として知られる。また、立派な髭を蓄えていたことから、美髯公とも呼ばれた。
 高月町西物部出身の片山雅洲(1872~1942)は、農事のかたわら独学で絵を学んでいたが、限界を感じ基礎的な画法を学びたいと考えた。両親を説得し農閑期に限り、隣村東物部の画家戸田北堂(1837?~98)に就くことを許され、初めて絵の手解きを受けることになり、「雲峯」と号した。短い冬の期間であったが、その熱意と才能により上達は早く、やがて襖絵や本作等多くの作品を描くほどになった。雅洲22歳の作。
   
(24)己ケ部屋図
縦114.5㎝ 横50.7㎝ 明治39年(1906) 1幅
片山雅洲筆

 雅洲は京都で修行し、その後、東京に出て橋本雅邦の門に入った。同門には横山大観、下村観山らがいた。しかし、雅洲は家業のため、やむなく帰郷し、郷里にて画業に励むことになった。東京より帰郷した雅洲は、明治30年代末から40年代前半にかけ、暇を見つけては博物館・社寺を巡って古今・和漢の名画を模写したり、各地を訪ねて写生を行った。そしてこの頃、精緻な美人画・風俗画を多く描いている。
 本作はその代表作で、着物の文様はもとより、背にする屏風の細部にわたるまで、まこと精緻に仕上げている。そこからは、中央を離れてなお精力的に様々な画風を学び取ろうとした雅洲の熱意が伝わってくる。雅洲35歳の作。
   
 など
 
関連事業
■展示説明会
  
  日時:令和2年4月19日(日) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 ※展示説明会は中止になりました。
  
 
 
 

 
企画展「湖北の古代寺院を考える」


                   期間: 令和元年9月4日(水)-10月22日(火)

 開催趣旨
 滋賀県の東北部、湖北地方には観音像をはじめ、特色ある仏教文化財が数多く残されています。その背景には、湖北地方では早くから、地域豪族や渡来人たちにより仏教信仰がすすめられ、多数の古代寺院が存在していました。『扶桑略記』によれば、白鳳期には諸国(全国)に、545寺院あったとされますが、近年の軒丸瓦の出土と研究により600寺院を超えることが明らかとされています。このうち伊香郡には3寺院、坂田郡には8寺院、浅井郡には5寺院存在していたことが想定されています。
  通常では仏像を中心に紹介し湖北の仏教文化を解説するものですが、この企画展は、湖北地域から出土した瓦や塔・古銭など古代の寺院関係遺物や、古代仏教ゆかりの寺社や寺院遺跡の遺構(写真パネル)を通して、湖北の古代寺院を探ることを目的とします。 


主催:高月観音の里歴史民俗資料館
展示品:総数:25件52点
             
       
 おもな展示資料
 
(1)「華寺(はなでら)遺跡出土軒丸瓦
単弁八葉蓮華紋軒丸瓦」(長浜市高月町保延寺)

白鳳時代(7世紀後半頃)
縦12.3㎝×横12.5㎝×厚2.9㎝          
高月観音の里歴史民俗資料館蔵

 華寺廃寺(はなでらはいじ)(華寺遺跡)は高月町を代表する古代寺院で、これまでの発掘調査で多くの瓦が出土している。軒丸瓦は、寺院・郡衙(ぐんが・地方の役所)などの建物の先端部分を飾るもので、おもに蓮の花を表現した紋様を使用した。紋様は、木枠の笵型(はんかた)に粘土を押し付けて取り、整形して瓦の形にする。蓮華紋の中央が突出し十文字の凸線が入り、内面は、工人の手で撫でた痕跡がみられる。焼成(しょうせい)(瓦の焼き上がり)はやや軟質。華寺創建頃の瓦と考えられ、湖東式(ことうしき)の瓦である。湖東式とは、湖東北部地域(今の彦根市、東近江市)の瓦様式から派生した瓦のことである。
   
(2)「華寺遺跡出土線刻(せんこく)瓦 軒平瓦(のきひらがわら)」(長浜市高月町保延寺)

白鳳時代(7世紀後半頃)
縦18.1㎝×横7.5㎝×厚2.7㎝
長浜市蔵

 線刻瓦は、軒平瓦の内面部に側視蓮華紋(蓮の花を横から見て描いた紋様)をヘラにより表現したもの。蓮華紋は、古代エジプトから始まり、アレキサンダー大王の遠征によってインドへ伝わり、シルクロードを経由して中国、朝鮮、日本へと伝わった。仏教では、蓮が泥水から成長することから、清浄さの象徴とされる。
   
 (3)「八島廃寺出土軒平瓦 均整唐草紋軒平瓦 」 (長浜市八島町)

白鳳時代(7世紀末頃)
縦16.8㎝×横10.7㎝×厚3.8㎝
八雲コレクション(浅井歴史民俗資料館蔵)



  八島廃寺は、戦前に田中礎(いしずえ・号は八雲)氏の資料採集により存在が明らかとなった古代寺院である。瓦は唐草紋を表現した軒平瓦で、外面はナデ、内面は板状工具で整形する。白鳳時代の瓦とみられ、焼成(しょうせい)は良好。均整のとれた唐草紋は、大陸文化(西アジアの影響)を受けたものと考えられる。また、八島廃寺と救外(きゅうがい)廃寺(長浜市上野町)出土の瓦はよく似ており、何らかの交流があったものとみられる。
   
 (4)「磯廃寺出土鴟尾(いそはいじしゅつどしび) 百済様式」米原市磯(いそ)

白鳳時代(7世紀後半頃)
縦85.4㎝×横48.2㎝×厚1.7㎝
長浜城歴史博物館保管(個人蔵)


 鴟尾とは、古代宮殿や寺院仏殿の大棟(おおむね)の両端を飾る装飾。瓦質のもので、正段(しょうだん)と縦帯(じゅうたい)および胴の部分が残存する。全体的に灰白色を呈し、焼成は良好。この鴟尾は、形状から百済様式で2本の縦帯を有するものである。磯廃寺は、米原市を代表する古代寺院である。
   
(5)「華寺遺跡出土軒丸瓦 複弁六葉(ふくべんろくよう)蓮華紋軒丸瓦」(長浜市高月町保延寺)

奈良時代(8世紀後半頃)
縦18.8㎝×全長45.5㎝×厚2.6㎝
高月観音の里歴史民俗資料館蔵


 (1)の瓦とはつくりが違い、立体感が薄れて扁平に仕上げられている。焼成はやや軟質。華寺再建頃の瓦と考えられる。複弁蓮華紋の軒丸瓦は、7世紀後半頃に登場し、8世紀初頃に主流となる。
   
(6)「鴨田遺跡出土瓦塼(がせん)」 (長浜市大戌亥町)

奈良時代(8世紀頃)
縦11.1㎝×横10.2㎝×厚3.8㎝
八雲コレクション(浅井歴史民俗資料館蔵)


 瓦塼とは、瓦質(がしつ)のレンガのこと。郡衙や寺院の建物の床に敷かれたり、寺院の基壇(きだん)などにも使用された。この瓦塼は、直方体に面取りを行い、縦方向に櫛状工具による施文がみられる。焼成も良好で陶質化している。戦前の田中礎氏による採集品で、郡衙(ぐんが)・古代寺院に関わる遺跡が近隣に存在していたことが想定される。

 など
 
関連事業
■展示説明会
  
  日時:令和元年9月14日(土)午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室


■講演会「北近江の古代寺院」
     講 師:井口(いのくち) 喜晴(よしはる)氏(元大正大学教授)
     日 時:令和元年9月23日(祝・月) 午後1時30分~
     場 所:高月支所3階
     参加費:一般500円(観音の里歴史民俗資料館友の会会員は無料)
  
 

 
特別陳列「八木浜文殊院の密教美術」


                   期間: 令和元年6月19日(水)-8月19日(月)
 
 開催趣旨
 長浜市八木浜町は琵琶湖に面した集落で、八木浜港があります。慶応4年(1868)には、琵琶湖の増水により集落内の西照寺の上り段が3段ほど水没し、家2軒が波に取られたといいます。江戸時代後期には、湖水上昇による水害を軽減するため、県内の湖辺集落とともに「瀬田川(大津市)の川浚(かわさら)え」の請願活動を積極的に行い、川浚えの実現につながりました。
 文殊院は真言宗豊山派(ぶざんは)の寺院です。本尊不動明王坐像や五智如来・弘法大師像など木彫像の他、種字両界曼荼羅図(しゅじりょうかいまんだらず)、十三仏図、阿弥陀来迎図、涅槃図、地蔵菩薩、十一面観音・吉祥天(きっしょうてん)三尊像などの仏画も多数伝来しました。
 この春、文殊院の仏像・仏画類が高月観音の里歴史民俗資料館に寄託されたことから、これら密教美術を展示公開します。本展を通じ、湖北地方の信仰文化の一端に触れていただければ幸いです。

主催:高月観音の里歴史民俗資料館
             
       
 おもな展示資料
 
「大日如来坐像」
1躯(五智如来のうち) 像高25.2cm
江戸時代 寄木造・玉眼・漆箔 
文殊院蔵(高月歴民寄託)

 文殊院には正面に3つの厨子が並んでいます。本像は、向かって左の厨子に安置される、智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界(こんごうかい)の大日如来坐像。大日如来は、密教における中心仏です。文殊院には、ほかに4躯の同サイズの如来坐像も伝わり、もとは五智如来を構成していたと考えられますが、各如来像は現在、蓮華(れんげ)や薬壺を執り、当初の尊名は詳(つまび)らかではありません。台座裏の銘文から、長浜町の仏師・彫常の作であることがわかります。
   
「不動明王坐像」
1躯 像高39.3cm
江戸時代 寄木造・玉眼・彩色
文殊院蔵(高月歴民寄託)

 本像は、中央の厨子に安置される当寺の本尊。不動明王は、密教における根本仏・大日如来の化身といい、一切の衆生(しゅじょう)を救うために、剣を執り忿怒(ふんぬ)の相で導こうとする、密教特有のホトケです。本像は、眼光鋭い迫真の表情に特色があります。
   
 「種字両界曼荼羅図」 2幅 
本紙 金剛界:タテ 65.0cm×ヨコ53.8cm、
胎蔵界:タテ 64.8cm×ヨコ53.7cm
表具 金剛界:タテ144.0cm×ヨコ67.6cm、
胎蔵界:タテ143.8cm×ヨコ67.6cm
室町時代 絹本著色



 両界曼荼羅は、真言宗の開祖・空海が唐から請来した密教の根本本尊です。『大日経(だいにちきょう)』に基づく胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅と『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』に基づく金剛界曼荼羅からなります。いずれも中央に大日如来が、その周囲には多くの仏教の諸尊が配されます。本作は、紺に染めた絹に金泥で、それぞれの仏尊を梵字(種字)で表す種字曼荼羅と呼ばれるものです。本紙の上下の一文字は裂地(きれじ)ではなく描いて表わす「描表装(かきびょうそう)」となっている点にも特色があります。
 胎蔵界
 
金剛界   
   
 「阿弥陀来迎図(らいごうず)」 1幅
本紙 タテ82.8cm×ヨコ34.6cm、表具 タテ154.2cm×53.7cm
室町時代 絹本著色


 臨終に際し、西方極楽浄土から阿弥陀如来が迎えに来る様子を描いたものを、阿弥陀来迎図と呼びます。本図は、飛雲上(ひうんじょう)の踏割蓮華座(ふみわりれんげざ)に立ち、「来迎印」を結ぶ阿弥陀如来を正面向きに表わしています。肉身部は金泥により金色に彩色され、着衣部は金泥により衣文線(えもんせん)やさまざまな文様が、装飾性豊かに描かれています。
   
「地蔵菩薩・十一面観音・吉祥天三尊像」 1幅
本紙:タテ91.7cm×ヨコ39.1cm、
表具:タテ161.5cm×ヨコ55.9cm
江戸時代 紙本(しほん)著色


 地蔵菩薩を中尊とし、左右に十一面観音と吉祥天を配した三尊像。地蔵菩薩は、通常左手に宝珠(ほうじゅ)をのせ、右手に錫杖(しゃくじょう)を執る姿をみせますが、本図の地蔵は、右手は肘をまげて胸の前で第1指と第2指を捻(ねん)じて掌(たなごころ)を前に向ける特異な形に描かれています。この形姿は、「矢田型(やたがた)地蔵」と呼ばれるもので、大和郡山(奈良)の金剛山寺(通称・矢田寺)の本尊の姿をもとにしています。
   
「不動明王像」 1幅
本紙:タテ104.0cm×ヨコ41.4cm、
表具:タテ157.2cm×56.8cm
室町時代 絹本著色


 天地眼(てんちがん)・牙上下出(がじょうげしゅつ)を表し、右手に三鈷剣(さんこけん)、左手に羂索(けんさく)を執り、火炎光背を背に岩座に立つ不動明王を描いています。向かって右下に「妙澤(みょうたく)老人□□」とあり、南北朝時代の臨済僧・龍湫周澤(りゅうしゅうしゅうたく)(妙澤、1308-88)画の不動明王図を模写したものと考えられます。中世、密教信仰が禅僧の間で流行し、81歳で没した妙澤は、不動を描くこと1日1枚、これをおよそ三十年間休むことなく続けたと伝えます。
   
 「興教大師像(こうぎょうだいしぞう)」 1幅
本紙:タテ86.3cm×ヨコ39.7cm、
表具:タテ153.5cm×ヨコ53.7cm
江戸時代・元禄5年(1692) 絹本著色


 「真言宗中興の祖」と称される、平安時代後期の真言僧・興教大師覚鑁(かくばん)(1095~1144)の肖像。覚鑁は、末法思想・浄土教が流行する風潮の中、念仏や浄土思想を真言教学に取り入れ理論化した「密厳浄土(みつごんじょうど)」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成した人物です。のちに覚鑁は高野山を追われて根来寺(ねごろじ)(和歌山)に移り、その教義は新義真言宗として長谷寺(はせでら)(豊山派)や智積院(ちしゃくいん)(智山派)において隆盛していきました。
           
 など
 
関連事業
■展示説明会
  
  日時:令和元年7月20日(土)午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室

■第13回 観音検定ジュニア
     日 時:令和元年7月20日(土)~9月1日(日)
     場 所:高月観音の里歴史民俗資料館内
     対 象:小学生・中学生
     共 催:NPO「花と観音の里」
     内 容:展示を参考にしながら問題を解いていきます。夏休みを利用して、観音さま
          のことや地域の歴史・文化を楽しく学んでみませんか?