高月観音の里資料館
     
 

 
特別陳列
 「
雨森芳洲顕彰の歩みと芳洲のこころ
 -雨森芳洲関係資料受贈100年記念-



  期 間: 令和6年 6月12日(水)~7月22日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
 
開催趣旨
 雨森芳洲(1668~1755)は、雨森村(長浜市高月町雨森)出身と伝えられる江戸中期の儒学者で、朝鮮との交流で「誠意と信義の交わり」を主張・実践した人物です。その子孫は、代々対馬藩に仕えましたが、明治維新後に芳洲の関係資料とともに東京に移り住みました。
 今からちょうど100年前の大正13年(1924)、北近江に雨森芳洲の顕彰会「芳洲会」が結成されると、芳洲の子孫は雨森芳洲関係資料一式を芳洲会に寄贈しました。同じ年、芳洲は政府から「従四位」の位階が追贈されています。
 この展示では、それから一世紀の間、芳洲の啓発普及に努めてきた芳洲会をはじめとする活動の歩みや、芳洲資料の評価と普及の変遷を概観することによって、将来へ向けた先人顕彰のありようと方策を探ります。


展示構成

① 雨森芳洲顕彰の歩み
② 芳洲書院・芳洲庵の整備と訪れた人々
③ 雨森芳洲の再評価


展示資料
「雨森芳洲関係資料」等47件

主 催/長浜市
協 力/芳洲会

             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和6年6月30日(日)午後1時30分~
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 ①雨森芳洲顕彰の歩み
 大正時代、滋賀県伊香郡北富永村(現長浜市高月町)の富永尋常高等小学校校長藤田仁平(ふじたにへい)氏は、郷土の教育の中心となるのに最適の人物を探したところ、雨森芳洲の存在を知った。
 当時、芳洲は無位無階であったため、伊香郡長に協力を呼びかけるとともに、大正10年(1921)4月から2年間をかけて贈位申請のため種々の調査を実施した。その後、東京にて対馬雨森家伝来の資料(現在芳洲会所有)も調査した。
長崎県知事を経由して宮内省へ叙位の申請書を提出し、大正13年(1924)2月11日、「文教に貢献した功績」により、芳洲に従四位が贈られた。北近江では、芳洲の顕彰会「芳洲会」が発足し、顕彰活動がはじまった。
 
1.雨森芳洲先生事蹟調
1.雨森芳洲先生事蹟調
大正10年(1921)~ 1冊 27.3cm×19.6cm
藤田仁平編・筆 芳洲会蔵


 『近江人物志』『帝国人名辞典』『日本立志編』等から雨森芳洲の事績を調べて書き抜いたもの。富永尋常高等小学校校長藤田仁平氏が、芳洲の贈位申請に関して収集した資料である。
 

 
 
2.位記
2.位記
大正13年(1924)2月11日 2通
①位記 22.8cm×31.0cm 
②位記添書 23.4cm×31.4cm 芳洲会蔵


 没後170年を経て芳洲に「従四位」が贈られた。
 

 
3.雨森芳洲肖像画
3.雨森芳洲肖像画
江戸時代中期 紙本著色 1幅 74.6cm×42.9cm
重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」登録資料 芳洲会蔵


 唐服を着て拱手し儒巾をかぶる晩年の姿で、朝鮮通信使画員の作と伝える。延享5年(1748)第10次通信使芳洲81歳時のものか。
 

 
4.芳洲会設立趣意書
4.芳洲会設立趣意書
大正13年(1924)3月 1枚 芳洲会蔵

 大正13年2月の「従四位」贈位を受け、翌3月、北近江の地に雨森芳洲の顕彰会「芳洲会」が設立された。事業としては、芳洲書院の設立(書庫と記念館の建設等)、講演会の開催などが計画された。
 

 
5. 芳洲会「再興」趣意書
5. 芳洲会「再興」趣意書
昭和60年(1985)2月 1枚 芳洲会蔵


 戦後、日本の思想も教育も大きく変わり、芳洲会の活動も長く沈滞化していた。昭和50年代に入り、国際化の風潮の中、芳洲の存在が注目されはじめた。昭和58年の芳洲文庫資料の高月町指定文化財指定、翌59年の雨森芳洲庵開館を機に、芳洲会の再興の動きが盛り上がり、現在につながっている。
 
  ②芳洲書院・芳洲庵の整備と訪れた人々
 芳洲の生家跡に芳洲書院が開かれ、以後、井上巽軒(そんけん)(哲次郎)、内藤湖南(こなん)(虎次郎)、巖谷(いわや)小波(さざなみ)(季雄(すえお))、上田正明、司馬遼太郎らが訪れ、芳洲を高く評価した。また敷地内に書庫が建設され、子孫から寄贈を受けた関係資料が保管されてきた。
 芳洲書院の建物は、一時期「芳洲保育園」として利用され、その後建て替えられ、昭和59年(1984)秋に「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」が開館し、資料展示と交流の場として活用されている。

 
6.書「高山仰止景行行止」
6.書「高山仰止景行行止」
昭和7年(1932) 1幅
紙本墨書 1幅 131.5cm×34.0cm 内藤湖南書 芳洲会蔵


 東洋学者内藤湖南(こなん)(1866~1934)、67歳の書。「高山仰止、景行行止」とは、『詩経』の一節。高山は仰ぐもの、景行は人の行くところ。つまり、誰にでも尊敬されるもののたとえ。「敬書」「後学」の文字から、湖南が芳洲の思想を高く評価していたことがわかる。
 
 ③雨森芳洲の再評価
 雨森芳洲は大正時代、郷民教育の象徴として事績調査が行われ、同13年(1924)、「文教に貢献した功績」により従四位が贈られた。戦前には、「公のみ私を忘れ、国のみ家を忘る」の言葉が軍国主義的に解釈・利用されるなどして、戦後は埋もれた存在となっていた。
 こうした中、昭和50年代に入り、「世界の中の日本」や「朝鮮通信使」が意識されはじめ、芳洲の存在が再び輝きだした。昭和58年の芳洲文庫資料の高月町指定文化財指定、翌59年の雨森芳洲庵開館。また平成2年(1990)盧泰愚(ノテウ)大統領のスピーチにより日韓善隣友好のシンボルとして芳洲の名は全国に知れ渡った。平成6年には雨森芳洲関係資料は重要文化財に指定され、同29年には「朝鮮通信使に関する記録」の一部として、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。長浜市では、高月町時代を含め、官民を挙げて雨森芳洲の顕彰・啓発・普及に取り組んでいる。

 
7. 芳洲会会報「橘窓」
7. 芳洲会会報「橘窓」
 昭和61年(1986)~

 

 
8.「雨森芳洲関係資料」調査報告書
8.「雨森芳洲関係資料」調査報告書
平成6年(1994)、滋賀県教育委員会文化財保護課編


 平成3~5年度、県教委によって雨森芳洲関係資料の詳細調査が行われ、6年6月、同資料は重要文化財に指定された。
 
 

 
企画展 布施美術館名品展14
 「
富岡鉄斎と布施巻太郎 -憧れから懇友へ-



  期 間: 令和6年 3月13日(水)~5月13日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
 
開催趣旨
 日本近代文人画の巨匠である富岡鉄斎(1836~1924)が亡くなって100年。ここ長浜市にも、晩年の鉄斎と親交を結び、多くの作品を譲り受けるほどの人物がいました。それが高月出身の医師、布施巻太郎(ふせまきたろう)(1881~1970)です。彼は当時の勤務地であった福井県敦賀市から鉄斎の住む京都に通いつめ、45歳の年齢差にもかかわらずその審美眼を認められるようになり、やがて「懇友」と呼ばれ、鉄斎晩年の貴重な作品を譲り受けるに至りました。それら鉄斎の作品を含む膨大なコレクションは、のちに財団法人「布施美術館」として結実します。
 この展覧会では、布施巻太郎が富岡鉄斎から直接譲られた作品を中心に展示し、巻太郎と鉄斎の交流を紹介します。

本展の見どころ

① 鉄斎晩年の珠玉の作品
 この展覧会では、布施巻太郎が直接富岡鉄斎と接した大正11年(1922)から鉄斎が亡くなる13年(1924)にかけての3年間に絞り、巻太郎が直接鉄斎から受け取った絵画類に限って展示します。
 鉄斎は学者としての自負から、自分の絵を見るときはまず賛を読んでほしいと言ったと伝わります。彼が心酔した中国の文人蘇東坡(そとうば)の影響や、賛に込めた鉄斎の思いをあわせて読み取ってください。そして鉄斎は晩年にかけてますます気力が充実し、絢爛な作品となっていったと評されます。鉄斎が巻太郎に託した鉄斎最晩年の作をお楽しみください。

② 巻太郎と鉄斎の交流
 あわせて鉄斎が揮毫した箱書や、巻太郎が記録として書き留めた箱書、そしてその3年間に巻太郎が鉄斎から受け取った書簡のいくつかを取り上げることによって、鉄斎と巻太郎の間柄の変化を読み取っていきます。
 はじめは憧れだった存在からやがて直接作品を譲り受け、そして「懇友」とまで呼んでもらえるようになった巻太郎。心中はいかばかりだったでしょうか。箱書や書簡に垣間見る鉄斎の心遣いや、そして巻太郎自身が箱書に書き留めた、いきいきとした鉄斎の実像を感じ取ってください


主 催/長浜市
協 力/一般財団法人布施美術館
             
 ◆ 布施美術館名品展とは
 長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎が収集した富岡鉄斎をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料など数多くの貴重なコレクションを収蔵する美術館です。
 初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年「布施美術館名品展」として、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。

 
関連事業
■展示説明会
  
  日時①令和6年3月23日(土)午後1時30分~、②令和6年4月20日(土)午後1時30分
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 
寿老人図
寿老人図(じゅろうじんず) 1幅
紙本淡彩
富岡鉄斎88歳
大正12年(1923)


 七福神で知られる頭長3尺・身体3尺の寿老人を描く。室町時代の禅僧横川景三(おうせんけいさん)の詩を付す。箱書には鉄斎米寿の記念であり、木骨法(もっこつほう)(輪郭線を用いない画法)で描いたと記す。
【賛の大意】
元祐年間(北宋1086~94年)に一人の老人が現れ、宣仁皇太后の御簾の前で酒を賜った。頭長は三尺で身体も三尺。市中は平和な春だったが、鳥は叫び花は驚いたことだろう。横川景三の詩、米寿の鉄斎の画。
 

 
孫思邈医仙像
 孫思邈医仙像(そんしばくいせんぞう) 1幅 
 紙本淡彩
 富岡鉄斎89歳
 大正13年(1924)

 隋唐代の医家で後世仙人視された孫思邈(581~682)を描く。賛には父母から受けた身体を宝とし長寿が最重要との思邈の言葉が記される。また箱書には鉄斎が彼の医書「千金方」に感化されて描いたとあり、同じく医師であった白雲洞主人(巻太郎)のためと記す。
【賛の大意】
医仙孫思邈は言っている。天地の間で尊いのは人減である。頭は天をかたどり、足は地をかたどっている。父母から受けた身体を宝としなさい。洪範九疇(こうはんきゅうちゅう・政治道徳の9原則)の中でも長寿が最重要である。摂生のために大怒・大欲・大酔の三戒を知り、一つでもあれば真元気を失うため防ぐべきだ。
【箱書】
唐孫思邈は医書千金方を著す。世に行われて日久し。余其の書を得て大いに感ずる所有り。故に此の図を画き、敬慕の意を顕すと云ふ。白雲洞主人の為にす。八十有九叟。鉄斎百錬。
 

 
老子騎牛図
老子騎牛図(ろうしきぎゅうず) 1幅 
紙本著色
富岡鉄斎89歳
大正13年(1924)


 牛に乗る老子と従者を描く。老子は中国古代の思想家で道教の祖とされる。賛に功績をあげて名声を得たら引退するのが天の道であるとの老子の言葉を付す。また巻太郎は箱書に朝8時半から夕方6時半まで鉄斎と雑談や珍書を拝見して過ごした様子を記している。
【賛の大意】
持物を満たすのはやめた方がよい。鋭く鍛えれば長くはもたない。財宝が堂に満ちれば守ることもできない。富貴になり驕りが出れば自ら過ちを犯す。功績をあげて名声を得たら引退するのが天の道である。
【箱書】
大正十三年十月十五日午前八時半室町無量寿仏堂(むりょうじゅぶつどう)(=鉄斎の画室のこと)ニ詣テ先生ノ種種雑談又珍書ヲ拝見シ午後六時半辞出セントス…(中略)…鹿湾謹顕
 
 

 
十便十宜図帖(箱書)
 十便十宜図帖(じゅうべんじゅうぎずじょう)(箱書)

 鉄斎は池大雅と与謝蕪村の「十便十宜図」を何度も見て、そのたびに模写をして楽しんだという。その模写の箱書には、大正13年(1924)5月に鉄斎が「懇友(こんゆう)」である鹿湾医伯(巻太郎のこと)に送ったと記される。
【箱書】
余、大雅蕪村が画く所の十便十宜図を観ること数回なり。観る毎に模写し以て楽しみと為す。今之を「懇友」鹿湾医伯に貽(おく)る。因って其の由を題すと云ふ。/大正甲子五月/八十有九叟/鉄斎外史
 

 
蘭亭四十三賢之図涼炉
蘭亭四十三賢之図涼炉(らんていしじゅうさんけんのずりょうろ) 1基
白泥素焼
青木木米(あおきもくべい)作
江戸時代後期(19世紀


 蘭亭の宴をあしらった白泥素焼きの涼炉(煎茶道で湯を沸かす道具)。巻太郎は憧れの鉄斎に何度も面会を求めたが、2年間門前払いだったという。そこで会ってもらえないならこれを見てほしいと、所有する木米作の涼炉を鉄斎に預けることによって審美眼を認めさせる突破口とし、晴れて面会が叶うこととなった。
 

 
富岡鉄斎書簡(年賀状)
富岡鉄斎書簡(年賀状) 1通
紙本墨書
鉄斎89歳
大正13年(1924)


 巻太郎のもとに鉄斎から送られた初めての年賀状。新年を質素に迎えているというが、完成した2棟の書庫の雄大な姿に鉄斎の文人としての気概が感じられる。のちに巻太郎が受領する「新年楽事図」にも同じ賛が記されている。
【文面の大意】
大正13年の新年を迎え濁酒と質素な料理で祝い酒を傾けているが、万巻もの古今の書物を集めた2棟の書庫(「魁星閣(かいせいかく)」と「賜楓書楼(しふうしょろう)」)が堂々と青空にそびえている。
 
 
 

 
企画展
 「
近江・伊香の画人たち
   ~長浜市北部に花開いた画業~



  期 間: 令和6年 1月24日(水)~3月11日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
 
開催趣旨
 湖北地方はこれまで、さまざまな分野にわたり、歴史上の人物を数多く輩出してきました。絵画の分野でも、多くの画人たちが活躍しています。旧伊香郡域では、京狩野の流れをくむ現長浜市高月町の西阿閉(にしあつじ)出身の橘雪嶹(たちばなせっとう・1743~1818)、四条派岡本豊彦に学んだ同・東物部(ひがしものべ)の薮田月湖(やぶたげっこ・不詳~1856)、湖北地方で多くの門人を育てた中川耕斎(なかがわこうさい)に師事した同・柏原の小森竹塘(こもりちくとう・1855~1939)、近代日本画の巨匠橋本雅邦(はしもとがほう)の門に入った同・西物部)の片山雅洲(かたやまがしゅう・1872~1942)らがすぐれた作品を残しています。
 本展では湖北・旧伊香郡高月の地の画人に関する作品や資料について、近年新たに確認されたものを中心に取り上げます。この企画を通して、近江湖北地方の美術風土と、この地で活躍した画人の世界にふれていただこうとするものです。

展示資料
掛軸、屏風、襖、絵馬など15件

主 催/長浜市
             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和6年2月10日(土) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 橘雪嶹(たちばなせっとう・1743~1818)
 現長浜市高月町西阿閉出身。名は惟成(これなり)、通称庄三郎、別に清蔵宗信と称し、雪嶹と号した。幼い頃、大坂に出て近江出身の浮世絵師・月岡雪鼎(つきおかせってい)の門に入ったが、やがて師のもとを離れて狩野派の絵を模写するなどして画業に励んだ。
 その後、帰郷して寛政12年(1800)法橋(ほっきょう)となった。享和3年(1803)には木之本地蔵院浄信寺の本堂天井に双龍図を描いた。文政元年(1818)76歳で没。なお、彼の子惟徳(これのり)は雪山(せつざん)と号し、孫の惟辰(これたつ)も長江(ちょうこう)と号する絵師である。
 
1 山寺観桜図屏風
1 山寺観桜図(やまでらかんおうず) 屏風
  1隻 文化11年(1814) 紙本著色
  本紙:145.6cm×314.2cm
  表具:162.0cm×329.2cm
  個人蔵


 橘雪嶹が晩年72歳の時に描いた屏風。桜花咲き誇る中、烏帽子直衣(えぼしのうし)姿の公家が、従者とともに桜の名所を訪れる様子を描く。生来旅を好んだ雪嶹は、諸国を遍歴し、全国各地の山川風景を写生したという。特に山を好み、富士山に登頂すること3回に及んだという。
 

 薮田月湖(やぶたげっこ・不詳~1856)
 現長浜市高月町東物部出身と伝える。通称民蔵、別に豊蔭(ほういん)と号す。幼い頃、京都に出て四条派岡本豊彦の門に入って絵を学び、晩年は帰郷して東物部の仏善寺に住んで活動した。彼は、当時の仏善寺の住職恵洞(えどう)の叔父にあたる。
 天保10年(1839)には木之本地蔵院浄信寺の大絵馬「巴御前図」を描き、嘉永4年(1851)には浄土真宗仏光寺派中興の祖・了源(りょうげん)上人の絵伝を描いて仏善寺に納めた。安政3年(1856)に没し、仏善寺に葬られた。また月湖は、橘雪嶹の子雪山や東物部の絵師戸田北堂(とだほくどう)らに絵の手ほどきをしたという。
2 岩城舛屋前の賑い図 屏風
 2 岩城舛屋前(いわきますやまえ)の賑い図 屏風
  1隻 天保10年 (1839) 紙本著色
  本紙:102.3cm×352.0 cm、
  表具:134.1 cm×359.2 cm
  個人蔵


 江戸麹町にあった呉服店「岩城舛屋」と店前の路上の賑わいの様子を描いたもの。原作は、菊川英山(きくかわえいざん)画の3枚続きの錦絵「岩城舛屋前の賑い」(1820~30年頃作)。原作をもとに、薮田月湖が当初は「襖絵」4面として大きく描き、のちに「六曲屏風」に改装された。
 江戸時代後期に流行した玉虫色(明るい緑色)の口紅をした女性たち、後に第6代横綱になる人気力士小柳長吉(こやなぎちょうきち)、噺家の三笑亭可上(さんしょうていかじょう) が描かれていることなど興味深く、「岩城舛屋」の繁盛と当時の風俗をよく伝えている。
■岩城舛屋とは
 「岩城舛屋」は、日本橋の越後屋(現三越)よりも栄えた当時随一の呉服店。全盛期には11棟の土蔵と従業員500人を擁したという。しかし、江戸末期から明治初期にかけて、官軍に接近をした越後屋(三越)とは対照的に、幕府側の財政を担った岩城家は衰退し、明治17年に「岩城舛屋」は閉店となった。
 
■本作製作の背景
 江戸時代後期、高月の農家出身の徳兵衛(とくべえ)が、江戸に出て「岩城舛屋」に奉公した。しかし徳兵衛は病のため帰郷し、文政11年(1828)33歳の若さで亡くなった。本作は、没後11年を経た天保10年 (1839)、兄伊右衛門(いよもん)が徳兵衛の菩提を弔うため、地元の画人薮田月湖に依頼し、かつて勤めていた「岩城舛屋」の錦絵をもとに襖絵を描かせたという。
 
 

 小森竹塘(こもりちくとう・1855~1939)
 現長浜市高月町柏原出身。名は與左衛門(よざえもん)。幼い頃から絵を好み、14歳から4年間、東物部の戸田北堂に絵を学び、また彦根の吉田雪斎(よしだせっさい)に山水画をの手ほどきを受けた。19歳の時、現長浜市山階町に住む岸派の画家中川耕斎に師事した。
 彼は算法(数学)にも長け、明治初期から税務署・村役場などに勤務し、また明治30年(1897)の渡岸寺観音堂十一面観音像の国宝指定に際しては、観音堂再建事業にも貢献した。その間も竹塘は画作に励み、明治28年の西京博覧会をはじめ、多くの画会・展覧会に出品したびたび入賞した。
 また彼は旅を好んで全国をめぐり、求めに応じて筆を執り各地に多数の作品を残した。彼の弟子は10数人を数えたという。昭和14年(1939)85歳で没した。
       
5 琴棋書画図 襖(右から、琴・棋・書・画)
 5 琴棋書画図(きんぎしょがず) 襖
  4面 年不詳 紙本墨画淡彩
  本紙:134.2cm×60.6cm
  表具:177.8cm×92.8cm
  個人蔵


 「琴棋書画」とは、文字通り琴の演奏、囲碁、書道、画作のことで、この四芸は文化人のたしなみとされた。画題としても人気があり、中国・朝鮮で好まれ、日本でも数多く描かれた。
 襖の両面に絵があり、表は琴棋書画図、裏面には同じく竹塘画の花鳥図が描かれている。竹塘は85歳で亡くなる前年まで画作を行っていた。現在残されている彼の作品は、大正時代60歳代後半以降のものが多く、本作も年紀は無いものの、その頃の作であろう。
 
 

 片山雅洲(かたやまがしゅう・1872~1942)
 現長浜市高月町西物部出身。名は清次郎。はじめ「雲峯(うんぽう)」と号し、京都に出て「徹巌(てつがん)」、その後上京して「雅洲(がしゅう)」と称した。また別号に「璞(ぼく)」「画魔(がま)」などがある。幼い頃、隣村東物部の戸田北堂(とだほくどう)に絵の手ほどきを受け、23歳の時、京都に出て四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)、次いで今尾景年の門に入った。別号の「画魔」は、床に紙を広げて這いつくばって描くことから「ガマ(ガマガエル)」とあだ名を付けられ、本人も気に入って「画魔」の字を宛てて名乗ったという。2年続けて美術展で入選し26歳の時、上京。東京に出て橋本雅邦に入門。家業(農業)の都合により早く帰郷した。
 郷里での活動には、布施巻太郎(ふせまきたろう)(布施美術館創設者)をはじめ、京都建仁寺管長竹田黙雷(たけだもくらい)、湖東永源寺管長芦津石蓮(あしづせきれん)などに多方面で支えられて画作を続け、昭和17年(1942)71歳で没した。
  
10 鬼神図
 10 鬼神図
  1幅 明治30年代か 絹本著色
  本紙:114.2cm×51.8cm
  表具:169.8cm×65.3cm
  個人蔵


 角が生えた恐ろしい形相の鬼神が、黒雲中から飛び出す様を描く。両手を上にあげ、右手には独鈷杵(とっこしょ・密教法具の一つ)を執り、条帛(じょうはく)・天衣(てんね)・腰裳(こしも)をまとう。露出する肌には、ぼかしの技法である隈取(くまど)りを多用し、見る者にひときわ強い印象を与えている。
 師橋本雅邦の描いた「風神雷神」(広島県立美術館蔵)にインスピレーションを受け、雅洲自身の作品として描いたものであろうか。
 
 

 
企画展
 「
雨森芳洲を取り巻く人々 ~交友と子弟~



  期 間: 令和5年 9月20日(水)~11月27日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日(11月4日は開館)
 
   
開催趣旨
 雨森村(長浜市高月町雨森)出身と伝える雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668~1755)は、江戸時代中期、対馬藩に仕えた儒学者で、江戸で木下順庵(きのしたじゅんあん)に学び、同門には新井白石(あらいはくせき)などがいました。藩では文教を担当するほか、朝鮮通信使の随行役などを通じて、朝鮮の文人や外交官とも親交を深めました。また、私塾を開いて後進の育成に努め、門下からは対馬藩に仕官し、文教や外交分野で活躍する人物も輩出しました。
 「学は、人たることを学ぶゆえんなり」。これは芳洲が好んで使った言葉で、彼の思想の根幹をなすものです。「学問」の意義はどう生きるか、何をなすべきかを探究することにあるという意味です。
 この企画展では、芳洲が子弟に示すために執筆した随筆や訓言、芳洲に贈られた漢詩や書状などを通して、芳洲と彼を取り巻く人々に焦点を当て、芳洲の思想や生涯を読み解きます。

展示構成
① 師・木下順庵と同門の人々
② 国境を越えた親交
③ 芳洲の子弟教育


主な展示資料
1.  木下順庵肖像
 付自賛
元禄9年
(1696)
 絹本著色  1幅  115.5cm×42.2cm 重要文化財
芳洲会蔵
2.  雨森芳洲肖像 江戸時代 中期  紙本著色  1幅  74.6cm×42.9cm 重要文化財・
ユネスコ「世界の記憶」登録資料
芳洲会蔵
3.  雨森鵬海詩抄 正徳4年(1714) 雨森鵬海著・筆
紙本墨書
 1巻  26.4cm×144.0cm 重要文化財
芳洲会蔵
4.  道以書翰 享保11年(1726) 玄錦谷筆
紙本墨書
 1通  38.5cm×68.9cm 重要文化財
芳洲会蔵
5.  諭子弟語 宝暦3年(1753)  雨森芳洲筆(86歳)
紙本墨書
 1幅  61.2cm×32.0cm 重要文化財
芳洲会蔵
6.  たはれぐさ 原著・享保20年
(1735)
刊行・寛政元年
(1789)
 雨森芳洲著  3冊  25.4cm×17.6cm 長浜市指定文化財
芳洲会蔵

※展示資料
「雨森芳洲関係資料」(芳洲会蔵) 28件



主 催/高月観音の里歴史民俗資料館
 力/芳洲会

             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和5年10月21日(土) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 
(1)木下順庵肖像 付自賛
  元禄9年(1696) 絹本著色 1幅 115.5cm×42.2cm
  重要文化財 芳洲会蔵


 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の師、儒学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)の肖像。唐服(とうふく)をまとい、袖に手を入れたまま胸前で拱手(きょうしゅ)して一指を外に出し、儒巾(じゅきん)をかぶった姿。
 『錦里(きんり)文集』には「榊原篁洲(さかきばらこうしゅう)は師順庵の肖像画を描きたいと願い、師に辞退されるもついにこれを許し、住吉画工に描かせ自賛を寄せた」とある。本作は、順庵が雨森芳洲に贈ったもので、同じ賛文は『錦里文集』巻頭にも肖像画とともに紹介されている。順庵は、この文を好んで肖像画に寄せ、門弟達に贈ったのであろう。
 
 
 (2)雨森芳洲肖像
   江戸時代中期 紙本著色 1幅 74.6cm×42.9cm
   重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」 芳洲会蔵


 長浜市出身と伝える対馬藩の儒者・雨森芳洲の肖像。師順庵の肖像と同じく、唐服を着て拱手し儒巾をかぶる。晩年の姿で、朝鮮通信使画員の作と伝える。延享5年(1748)第10次通信使芳洲81歳のものか。修理の際、使われている画仙紙は「青檀(せいたん)」が100%使われている高級紙であることが判明した。青檀の大部分は、中国福建省を原産地とし、朝鮮の画人がこれを用いて描いたのであろう。
 
 
 (3)雨森鵬海詩抄
   正徳4年(1714) 雨森鵬海著・筆 紙本墨書 1巻 26.4cm×144.0cm
   重要文化財 芳洲会蔵


 芳洲の長男・雨森鵬海(あめのもりほうかい)が父芳洲に同行して瀬戸内海を航行中に賦した漢詩30首を収めている。
 新井白石(あらいはくせき)の批点(ひてん)があり、巻末には七絶(しちぜつ)形式で、芳洲と初対面の日を追想し、2世鵬海の詩を称えた白石の言葉が記されている。時に鵬海17歳、白石58歳。
 
  
 (4)道以書翰(どういしょかん)
   享保11年(1726) 玄錦谷筆 紙本墨書 1通 38.5cm×68.9cm
   重要文化財 芳洲会蔵


 玄錦谷(ヒョンクムゴク)(道以(ドイ))は、かつて第8次朝鮮通信使の一員として正徳元年(1711)に日本を訪れ、通信使の任を終えた帰国後も、芳洲と長く交流は続いた。本書は、玄錦谷による芳洲に宛てた書状。鉄の貿易について述べるが、近況や詩文のことなどにも及んでいる。
 
  
 (5)諭子弟語(していをさとすことば)
   宝暦3年(1753) 雨森芳洲筆(86歳) 紙本墨書 1幅 61.2cm×32.0cm
   重要文化財 芳洲会蔵


 晩年86歳の芳洲が、子孫・門下へ示した訓言。
 「学は、人たることを学ぶゆえんなり」。これは芳洲が好んで使った言葉で、彼の思想の根幹をなすものである。「学問」の意義はどう生きるか、何をなすべきかを探究することにあると教え諭している。
 
 
 (6)たはれぐさ
   原著・享保20年(1735) 刊行・寛政元年(1789) 雨森芳洲著 3冊 25.4cm×17.6cm
   長浜市指定文化財 芳洲会蔵


 芳洲が68歳の時に著した和文随筆。上中下の3巻に分編される。
 第1条に「わが後なる人の、庭の訓(おし)えとも思えかしと、たく火に焼きもやらず、残し侍るなり」と、本書を子孫・子弟に対する遺教(ゆいぎょう)として執筆したことを表明している。跋文(ばつぶん)は同じ木下順庵門下の室鳩巣(むろきゅうそう)。
 なお、天理大学の「古義堂(こぎどう)文庫」には、芳洲が京都の儒者伊藤東涯(いとうとうがい)に宛てた、本書の校訂・批評を請う書状が2通伝わっている。
 

 
企画展
 「
井口(いのくち)の歴史と文化財



  期 間: 令和5年 6月14日(水)~8月7日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
   
開催趣旨
 長浜市高月町井口(いのくち)の集落は、高時川の井堰(いせき)に位置し、旧伊香郡南部(長浜市高月町域)と旧東浅井郡を含む重要な井口(取水口)であることから、「井口村」と呼ぶようになったといいます。
 中世、高月町のほぼ全域にかけて天台宗延暦寺領の荘園・富永庄(とみながのしょう)が成立しました。用水井口を守護するため、ここに延暦寺の守護神・坂本日吉大社の分霊を勧請奉祀して井口日吉神社が創立されました。地元ではこの神社を「新日吉(いまひえい)山王権現(さんのうごんげん)」と称しました。
 今回の企画展示では、中世栄えた富永庄の中心であった高月町井口に焦点を当て、日吉神社や浅井氏の外戚井口氏の菩提寺・理覚院(りかくいん)などに伝わる貴重な仏像・神像、歴史資料などを紹介展示します。

本展の見どころ
① 井口集落に伝わる観音像4体が、はじめて一堂に会します。

② 井口に本拠を構えた浅井家の重臣・井口氏。
  浅井長政の母方の祖父・井口弾正(だんじょう)の肖像画を特別公開。


③ 複雑に配された取水口の位置がわかる絵図を公開し、当時の水利事情を考えます。


主な展示資料
1.  十一面観音立像 1躯  日吉神社蔵  寄木造・古色・玉眼  像高55.1cm  江戸時代
2.  十一面観音坐像
(「日吉山王二十一社
 本地仏」のうち)
1躯  日吉神社蔵  寄木造・漆箔・
 彩色・玉眼
 像高29.8cm  室町時代
3.  聖観音立像 1躯  理覚院蔵  一木造・古色・彫眼  像高38.2cm  室町時代
4.  十一面観音立像 1躯  理覚院蔵  一木造・素地・彫眼  像高42.0㎝  江戸時代
5.  伝井口弾正肖像画 1躯  理覚院蔵  絹本著色  79.2cm×36.5cm  安土桃山時代
6.  高時川水利絵図
(「日吉神社文書」
のうち)
1舗  日吉神社蔵  紙本彩色.  79.5cm×121.4cm  江戸時代

※展示資料総数 13件41点


主 催/高月観音の里歴史民俗資料館
 力/長浜市高月町井口 日吉神社・理覚院

             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和5年7月22日(土) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 
(1)日吉神社蔵 十一面観音立像 1躯
 
 
 (2)日吉神社蔵 十一面観音坐像(「日吉山王二十一社本地仏」のうち) 1躯
 
 
日吉山王二十一社本地仏
 
   
 (3)理覚院蔵 聖観音立像 1躯
 
   
 (4)理覚院蔵 十一面観音立像 1躯
 
 
(5)理覚院蔵 伝井口弾正肖像画 1躯 
 
 
 (6)日吉神社蔵 高時川水利絵図(「日吉神社文書」のうち)  1舗
 


 
特別陳列
 「
布施美術館名品展13―東アジアの資料群―



  期 間: 令和5年 3月15日(水)~5月15日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
開催趣旨
 布施コレクションの中から、名品を展示紹介する毎年恒例のシリーズ展で、13回目の開催。
長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎(ふせまきたろう)(1881-1970)が収集した富岡鉄斎(とみおかてっさい)(1836-1924)をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料など数多くの貴重なコレクションを収蔵する美術館です。
 初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。
 今回の特別陳列では所蔵品の中から、古代から中世までの東アジア(主に中国・朝鮮)に関する資料を公開します。我が国は、東アジア文化の終着点であり各時代の大陸文化を吸収し、独自の文化として発展してきました。唐時代の貴人の墓から出土した俑(よう)、高麗王朝期の経巻、敦煌(とんこう)出土の経巻など日本文化の原点となる優れた資料にスポットをあて、東アジアの文化や歴史と我が国との関係を考えます。
 本展を通じて布施コレクションの価値を再認識する契機にしていただければ幸いです。

展示内容
① 春秋戦国~北宋(紀元前300~1127)の美術工芸品
春秋戦国の青銅器、東晋の磚硯(せんけん)、唐の俑(よう)(人形のこと)の文官像・婦人像・騎馬像、武周(ぶしゅう)の敦煌(とんこう)出土経巻など、バラエティに富む古代中国の美術工芸品や仏教文化を紹介します。

② 明代(1368~1644)の美術工芸品と文字文化
明代の陶磁器や典籍類を紹介します。

③ 朝鮮の美術工芸品と文字文化
高麗時代(918~1356)の経巻、朝鮮時代(1392~1910)の伊羅保茶碗(いらぼちゃわん)や熊川大抹茶碗(こもがいだいまっちゃわん)や典籍などを紹介します。


本展の見どころ
① 春秋戦国時代の青銅器の祭器を初公開します。
② 唐代の俑8躯を初公開します。
③ 伝敦煌出土「金光明最勝王経」(則天武后時代の資料)を初公開します。



主 催/高月観音の里歴史民俗資料館
 力/一般財団法人 布施美術館

             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和5年3月26日(日) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
   
青銅器 祭器   青銅器内面に刻まれた巴蜀文字
 (1)青銅器 祭器 1基
   春秋戦国時代(紀元前300年ころ)
   高さ19.5㎝×径28.5㎝

 祭器とは祭祀に用いられ供物を入れる器物。青銅製品で、口縁部の外側に立体化した饕餮文(とうてつもん)、斜格子文を中位から下方部に施文し、斜格子文の中に流水文と乳状突起を配する。台座部には、獣面文が施文される。内面には、巴蜀(はしょく)文字という漢字の原型となる文字が四文字線刻されている。饕餮は中国古代神話に登場する悪獣で、渾敦(こんとん)、窮奇(きゅうき)、檮杌(とうごつ)とともに「四凶」とされる。饕餮には財を貪り、食物も貪るという意味がある。
 中国古代の王は、青銅器に悪獣を表現することで悪獣を支配し、神への祭祀を行ったと考えられる。
 
 
         
 (2)文官像  (3)武官像  (4)婦人像  (5)婦人像  (6)婦人像

     
(7)婦人騎馬像   (8)牛像 (9)牛像 
(2)~(9)俑 8躯 唐 7世紀~8世紀ころ

(2)文官像 高さ22.0㎝×幅6.9㎝
(3)武官像 高さ18.9㎝×幅6.1㎝
(4)婦人像 高さ29.9㎝×幅7.4㎝
(5)婦人像 高さ38.2㎝×幅12.5㎝
(6)婦人像 高さ36.5㎝×幅10.5㎝
(7)婦人騎馬像 高さ29.8㎝×幅30.1㎝
(8)牛像 高さ14.7㎝×幅21.8㎝
(9)牛像 高さ18.6㎝×幅24.2㎝

 俑は土製人形のこと。唐時代、俑は有力者の墳墓に納められた副葬品・祭祀用品として用いられた。死者の生前の生活を墓中に仮器をもって再現させようという、漢代以降の思想を形に表したものと考えられている。低温度で焼かれた土製の塑像で、表面には白色や赤色の顔料などで着色されたりした(加彩俑・かさいよう)。
 今回の展示品には、文官像(2)・武官像(3)・婦人像(4~6)・婦人騎馬像(7)・牛像(8.9)がある。文官像は、胸前で手を組み楕円形の孔(あな)が穿(うが)たれていることから、笏(しゃく)を執っていたと考えられる。婦人像は、両手が隠れる長袖に床へ裾がつく衣と特徴のある髷(まげ)を結っており、すらりとした姿で表現される。婦人騎馬像は、長袖の上衣とズボンのような下衣を着用して馬にまたがった女性で、右手を下に伸ばし、左手は胸前に上げていることが分かる。牛像は2体あり、いずれも装飾品を取り付けた姿で表現されている。
 
 金光明最勝王経
 (10)金光明最勝王経依空満願品第十
    (こんこうみょうさいしょうおうきょういくうまんがんぼんだいじゅう) 1巻 武周
     長安3年(702) 伝敦煌出土品
     縦28.0㎝×横341.4㎝

 金光明最勝王経は、仁王経・法華経とともに国家鎮護の三部経の一つ。
この経を聞いて信受するところには四天王など諸天善神の加護が得られると説く。

 唐の義浄(ぎじょう)(635-713)の訳、10巻31品。
 武周とは則天武后(そくてんぶこう)の政変により、唐から国号が周(古代王朝に周朝があるため、王朝名は武周と表現される)へ変わった時代のことをさす。巻末には「制作長安西明寺」「三蔵法師義浄奉」と記されている。
 
(11)緑釉(りょくゆう) 陶枕(とうちん)
    1基 明(15世紀)
    縦18.4㎝×横24.5㎝×高さ14.5㎝

 約500年前に造られた陶器製の枕。上部には刻花文(こっかもん)を大きく描き、全体には緑釉を施す。側面には、重ね焼きを示す円形の無釉の剥ぎ取り痕がみられる。底面は無釉で、黄橙色の陶質面が露出している。陶枕の上面は、やや中央に窪むが平坦に近く、後頭部を置くことは辛く感じられる。古代から中世にかけては側頭部を枕上に置き、横を向いて就寝することが一般的であったとされる
 
(12)熊川大抹茶碗 銘 東坡(とうば) 1口
    朝鮮(16世紀)
    高さ12.2㎝×径14.2㎝

 熊川(こもがい)茶碗とは、朝鮮で作られた高麗茶碗の一種。熊川茶碗は室町時代から江戸時代にかけての茶人たちから好まれた。腰が丸く、口縁が外反した独特の姿となり、胴部に膨らみを持ち、見込みに茶溜りと呼ばれる円形の窪みがある。熊川(イチョン)は、朝鮮半島東南部の慶尚南道(キョンサンナムド)にある地名である。本資料は、黄橙色の釉薬が全体にかかり、胴部に轆轤回転ナデによる溝が5本残る。底部はハ字状で低く安定する。
 
   
 東医宝鑑  東医宝鑑 人体解剖図
(13)東医宝鑑(とういほうかん) 25冊
    朝鮮 光海君6年(1613)刊
    縦34.5㎝×横21.0㎝

 豊臣秀吉による、文禄・慶長の役のさなかの1596年、朝鮮国王宣祖(ソンジョ)の命により許浚(ホジュン)(1546-1615)が編纂した医書で、当時の東洋医学の最高峰とされる。宋・元・明代の主要医学書や朝鮮で出版された医書等を引用し、全医学の統一をはかっている。その内容は、高く評価され、朝鮮のみならず日本・中国でも重版が続いた。我が国では、8代将軍吉宗が座右の書としていた。