高月観音の里資料館
   

 
高月観音の里歴史民俗資料館 開館40周年記念
 企画展
 「
湖北の神と仏-長浜の神仏習合とその彫像-



  期 間: 令和6年 7月24日(水)~9月9日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
開催趣旨
 湖北地域の集落には必ず神社と寺院があるといい、集落によっては複数の寺院や無住の堂舎が共存しています。そこには「神仏習合」によって成立した神像や仏像(本地仏(ほんじぶつ))が数多く伝えられ、この地域の宗教文化の水準の高さを示しています。そして、そこに住まう人びともまた、宗旨が異なるにもかかわらず、神社の氏子であり、寺院の門徒・信徒であり、無住の堂舎の世話方も兼ねるという、いわばごく自然に神仏習合を実践しています。そしてそれが多種多様な神像や仏像を現代まで守り伝え、地域コミュニティの維持に貢献してきました。
 この展覧会では、地域に伝わる素朴さと美しさを兼ね備えた神像(しんぞう)や仏像を展示公開し、湖北地域の豊かな習合文化の一端を示すとともに、そこに暮らしながら御像を守り、守られている人びとの営みを紹介することによって、この地域に根ざした宗教文化のあり方を振り返ります。
   ※神仏習合=  日本在来の神信仰と外来の仏教が融合した状態のこと。
   ※本地仏=  神は仏の仮の姿で、本体は仏であるという考え方(本地垂迹説)から生み出された仏像。

見どころ

神社に伝わる仏像や、神としてつくられた彫像(神像)、神の名をもつのに姿は仏として表された本地仏など、多彩な彫像を紹介します。
初出陳を含む、これまで長浜市内で公開される機会の少なかった14件37軀の尊像を紹介します。

主 催/長浜市

             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和6年8月10日(土)午後1時30分~
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 
木造薬師如来立像 1軀
木造薬師如来立像 1軀
像高97.6cm 平安時代 長浜市指定文化財
八幡神社蔵(長浜市高月町柏原)


 八幡神社境内の阿弥陀堂に安置。一木造で量感のある体躯と翻波式)衣文が特徴。
 

 
木造菩薩坐像 1軀
木造菩薩坐像 1軀
像高53.5cm 平安時代 長浜市指定文化財
新居神社蔵(長浜市新居町)


 新居神社境内の権現堂に安置。意匠を凝らした宝冠や引き締まった体躯など、尊名不明ながら洗練された菩薩像。
 

 
木造男神立像 1軀
木造男神立像 1軀
像高126.7cm 平安時代 長浜市指定文化財
鳥居堂蔵(長浜市西浅井町山門)


 撲頭冠に袍・沓を着けた俗形の男神像。鎬(しのぎ)立った目鼻立ちと神像にしては大柄な体躯が特徴。
 

 
木造神像 3軀(初出陳)
木造神像 3軀(初出陳)
像高18.0~26.3cm 平安時代
六所神社蔵(長浜市余呉町菅並)

 東林寺に隣接する六所神社社殿に安置される神像のうちの3柱。僧形坐像と女神像は一具。童子形坐像は美豆良(みずら)を団子状に結い唐服を着ける。
 

 
木造僧形坐像 1軀(初出陳)
木造僧形坐像 1軀(初出陳)
像高43.3cm 鎌倉時代 長浜市指定文化財
源昌寺蔵(長浜市余呉町上丹生)


 飛地境内で八幡神社に隣接する上丹生薬師堂に安置。地蔵と伝わるが老僧で数珠を弄(まさぐ)る。頂相(ちんぞう)(僧侶の肖像)、僧形八幡神、僧形文殊の可能性もある。鎌倉時代初期の作。
 

 
木造天神坐像 1軀
木造天神坐像 1軀
像高83.3cm、南北朝時代、菅原神社蔵(長浜市余呉町坂口)


 もと菅山寺に隣接する近江天満宮菅原神社に鎮座。瞋怒(しんぬ)相で撲頭冠と強装束(こわしょうぞく)の袍を着ける等身大の天神像。

 
 
 

 
特別陳列
 「
雨森芳洲顕彰の歩みと芳洲のこころ
 -雨森芳洲関係資料受贈100年記念-



  期 間: 令和6年 6月12日(水)~7月22日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
 
開催趣旨
 雨森芳洲(1668~1755)は、雨森村(長浜市高月町雨森)出身と伝えられる江戸中期の儒学者で、朝鮮との交流で「誠意と信義の交わり」を主張・実践した人物です。その子孫は、代々対馬藩に仕えましたが、明治維新後に芳洲の関係資料とともに東京に移り住みました。
 今からちょうど100年前の大正13年(1924)、北近江に雨森芳洲の顕彰会「芳洲会」が結成されると、芳洲の子孫は雨森芳洲関係資料一式を芳洲会に寄贈しました。同じ年、芳洲は政府から「従四位」の位階が追贈されています。
 この展示では、それから一世紀の間、芳洲の啓発普及に努めてきた芳洲会をはじめとする活動の歩みや、芳洲資料の評価と普及の変遷を概観することによって、将来へ向けた先人顕彰のありようと方策を探ります。


展示構成

① 雨森芳洲顕彰の歩み
② 芳洲書院・芳洲庵の整備と訪れた人々
③ 雨森芳洲の再評価


展示資料
「雨森芳洲関係資料」等47件

主 催/長浜市
協 力/芳洲会

             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和6年6月30日(日)午後1時30分~
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 ①雨森芳洲顕彰の歩み
 大正時代、滋賀県伊香郡北富永村(現長浜市高月町)の富永尋常高等小学校校長藤田仁平(ふじたにへい)氏は、郷土の教育の中心となるのに最適の人物を探したところ、雨森芳洲の存在を知った。
 当時、芳洲は無位無階であったため、伊香郡長に協力を呼びかけるとともに、大正10年(1921)4月から2年間をかけて贈位申請のため種々の調査を実施した。その後、東京にて対馬雨森家伝来の資料(現在芳洲会所有)も調査した。
長崎県知事を経由して宮内省へ叙位の申請書を提出し、大正13年(1924)2月11日、「文教に貢献した功績」により、芳洲に従四位が贈られた。北近江では、芳洲の顕彰会「芳洲会」が発足し、顕彰活動がはじまった。
 
1.雨森芳洲先生事蹟調
1.雨森芳洲先生事蹟調
大正10年(1921)~ 1冊 27.3cm×19.6cm
藤田仁平編・筆 芳洲会蔵


 『近江人物志』『帝国人名辞典』『日本立志編』等から雨森芳洲の事績を調べて書き抜いたもの。富永尋常高等小学校校長藤田仁平氏が、芳洲の贈位申請に関して収集した資料である。
 

 
 
2.位記
2.位記
大正13年(1924)2月11日 2通
①位記 22.8cm×31.0cm 
②位記添書 23.4cm×31.4cm 芳洲会蔵


 没後170年を経て芳洲に「従四位」が贈られた。
 

 
3.雨森芳洲肖像画
3.雨森芳洲肖像画
江戸時代中期 紙本著色 1幅 74.6cm×42.9cm
重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」登録資料 芳洲会蔵


 唐服を着て拱手し儒巾をかぶる晩年の姿で、朝鮮通信使画員の作と伝える。延享5年(1748)第10次通信使芳洲81歳時のものか。
 

 
4.芳洲会設立趣意書
4.芳洲会設立趣意書
大正13年(1924)3月 1枚 芳洲会蔵

 大正13年2月の「従四位」贈位を受け、翌3月、北近江の地に雨森芳洲の顕彰会「芳洲会」が設立された。事業としては、芳洲書院の設立(書庫と記念館の建設等)、講演会の開催などが計画された。
 

 
5. 芳洲会「再興」趣意書
5. 芳洲会「再興」趣意書
昭和60年(1985)2月 1枚 芳洲会蔵


 戦後、日本の思想も教育も大きく変わり、芳洲会の活動も長く沈滞化していた。昭和50年代に入り、国際化の風潮の中、芳洲の存在が注目されはじめた。昭和58年の芳洲文庫資料の高月町指定文化財指定、翌59年の雨森芳洲庵開館を機に、芳洲会の再興の動きが盛り上がり、現在につながっている。
 
  ②芳洲書院・芳洲庵の整備と訪れた人々
 芳洲の生家跡に芳洲書院が開かれ、以後、井上巽軒(そんけん)(哲次郎)、内藤湖南(こなん)(虎次郎)、巖谷(いわや)小波(さざなみ)(季雄(すえお))、上田正明、司馬遼太郎らが訪れ、芳洲を高く評価した。また敷地内に書庫が建設され、子孫から寄贈を受けた関係資料が保管されてきた。
 芳洲書院の建物は、一時期「芳洲保育園」として利用され、その後建て替えられ、昭和59年(1984)秋に「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」が開館し、資料展示と交流の場として活用されている。

 
6.書「高山仰止景行行止」
6.書「高山仰止景行行止」
昭和7年(1932) 1幅
紙本墨書 1幅 131.5cm×34.0cm 内藤湖南書 芳洲会蔵


 東洋学者内藤湖南(こなん)(1866~1934)、67歳の書。「高山仰止、景行行止」とは、『詩経』の一節。高山は仰ぐもの、景行は人の行くところ。つまり、誰にでも尊敬されるもののたとえ。「敬書」「後学」の文字から、湖南が芳洲の思想を高く評価していたことがわかる。
 
 ③雨森芳洲の再評価
 雨森芳洲は大正時代、郷民教育の象徴として事績調査が行われ、同13年(1924)、「文教に貢献した功績」により従四位が贈られた。戦前には、「公のみ私を忘れ、国のみ家を忘る」の言葉が軍国主義的に解釈・利用されるなどして、戦後は埋もれた存在となっていた。
 こうした中、昭和50年代に入り、「世界の中の日本」や「朝鮮通信使」が意識されはじめ、芳洲の存在が再び輝きだした。昭和58年の芳洲文庫資料の高月町指定文化財指定、翌59年の雨森芳洲庵開館。また平成2年(1990)盧泰愚(ノテウ)大統領のスピーチにより日韓善隣友好のシンボルとして芳洲の名は全国に知れ渡った。平成6年には雨森芳洲関係資料は重要文化財に指定され、同29年には「朝鮮通信使に関する記録」の一部として、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。長浜市では、高月町時代を含め、官民を挙げて雨森芳洲の顕彰・啓発・普及に取り組んでいる。

 
7. 芳洲会会報「橘窓」
7. 芳洲会会報「橘窓」
 昭和61年(1986)~

 

 
8.「雨森芳洲関係資料」調査報告書
8.「雨森芳洲関係資料」調査報告書
平成6年(1994)、滋賀県教育委員会文化財保護課編


 平成3~5年度、県教委によって雨森芳洲関係資料の詳細調査が行われ、6年6月、同資料は重要文化財に指定された。
 
 

 
企画展 布施美術館名品展14
 「
富岡鉄斎と布施巻太郎 -憧れから懇友へ-



  期 間: 令和6年 3月13日(水)~5月13日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
 
開催趣旨
 日本近代文人画の巨匠である富岡鉄斎(1836~1924)が亡くなって100年。ここ長浜市にも、晩年の鉄斎と親交を結び、多くの作品を譲り受けるほどの人物がいました。それが高月出身の医師、布施巻太郎(ふせまきたろう)(1881~1970)です。彼は当時の勤務地であった福井県敦賀市から鉄斎の住む京都に通いつめ、45歳の年齢差にもかかわらずその審美眼を認められるようになり、やがて「懇友」と呼ばれ、鉄斎晩年の貴重な作品を譲り受けるに至りました。それら鉄斎の作品を含む膨大なコレクションは、のちに財団法人「布施美術館」として結実します。
 この展覧会では、布施巻太郎が富岡鉄斎から直接譲られた作品を中心に展示し、巻太郎と鉄斎の交流を紹介します。

本展の見どころ

① 鉄斎晩年の珠玉の作品
 この展覧会では、布施巻太郎が直接富岡鉄斎と接した大正11年(1922)から鉄斎が亡くなる13年(1924)にかけての3年間に絞り、巻太郎が直接鉄斎から受け取った絵画類に限って展示します。
 鉄斎は学者としての自負から、自分の絵を見るときはまず賛を読んでほしいと言ったと伝わります。彼が心酔した中国の文人蘇東坡(そとうば)の影響や、賛に込めた鉄斎の思いをあわせて読み取ってください。そして鉄斎は晩年にかけてますます気力が充実し、絢爛な作品となっていったと評されます。鉄斎が巻太郎に託した鉄斎最晩年の作をお楽しみください。

② 巻太郎と鉄斎の交流
 あわせて鉄斎が揮毫した箱書や、巻太郎が記録として書き留めた箱書、そしてその3年間に巻太郎が鉄斎から受け取った書簡のいくつかを取り上げることによって、鉄斎と巻太郎の間柄の変化を読み取っていきます。
 はじめは憧れだった存在からやがて直接作品を譲り受け、そして「懇友」とまで呼んでもらえるようになった巻太郎。心中はいかばかりだったでしょうか。箱書や書簡に垣間見る鉄斎の心遣いや、そして巻太郎自身が箱書に書き留めた、いきいきとした鉄斎の実像を感じ取ってください


主 催/長浜市
協 力/一般財団法人布施美術館
             
 ◆ 布施美術館名品展とは
 長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎が収集した富岡鉄斎をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料など数多くの貴重なコレクションを収蔵する美術館です。
 初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年「布施美術館名品展」として、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。

 
関連事業
■展示説明会
  
  日時①令和6年3月23日(土)午後1時30分~、②令和6年4月20日(土)午後1時30分
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
 
寿老人図
寿老人図(じゅろうじんず) 1幅
紙本淡彩
富岡鉄斎88歳
大正12年(1923)


 七福神で知られる頭長3尺・身体3尺の寿老人を描く。室町時代の禅僧横川景三(おうせんけいさん)の詩を付す。箱書には鉄斎米寿の記念であり、木骨法(もっこつほう)(輪郭線を用いない画法)で描いたと記す。
【賛の大意】
元祐年間(北宋1086~94年)に一人の老人が現れ、宣仁皇太后の御簾の前で酒を賜った。頭長は三尺で身体も三尺。市中は平和な春だったが、鳥は叫び花は驚いたことだろう。横川景三の詩、米寿の鉄斎の画。
 

 
孫思邈医仙像
 孫思邈医仙像(そんしばくいせんぞう) 1幅 
 紙本淡彩
 富岡鉄斎89歳
 大正13年(1924)

 隋唐代の医家で後世仙人視された孫思邈(581~682)を描く。賛には父母から受けた身体を宝とし長寿が最重要との思邈の言葉が記される。また箱書には鉄斎が彼の医書「千金方」に感化されて描いたとあり、同じく医師であった白雲洞主人(巻太郎)のためと記す。
【賛の大意】
医仙孫思邈は言っている。天地の間で尊いのは人減である。頭は天をかたどり、足は地をかたどっている。父母から受けた身体を宝としなさい。洪範九疇(こうはんきゅうちゅう・政治道徳の9原則)の中でも長寿が最重要である。摂生のために大怒・大欲・大酔の三戒を知り、一つでもあれば真元気を失うため防ぐべきだ。
【箱書】
唐孫思邈は医書千金方を著す。世に行われて日久し。余其の書を得て大いに感ずる所有り。故に此の図を画き、敬慕の意を顕すと云ふ。白雲洞主人の為にす。八十有九叟。鉄斎百錬。
 

 
老子騎牛図
老子騎牛図(ろうしきぎゅうず) 1幅 
紙本著色
富岡鉄斎89歳
大正13年(1924)


 牛に乗る老子と従者を描く。老子は中国古代の思想家で道教の祖とされる。賛に功績をあげて名声を得たら引退するのが天の道であるとの老子の言葉を付す。また巻太郎は箱書に朝8時半から夕方6時半まで鉄斎と雑談や珍書を拝見して過ごした様子を記している。
【賛の大意】
持物を満たすのはやめた方がよい。鋭く鍛えれば長くはもたない。財宝が堂に満ちれば守ることもできない。富貴になり驕りが出れば自ら過ちを犯す。功績をあげて名声を得たら引退するのが天の道である。
【箱書】
大正十三年十月十五日午前八時半室町無量寿仏堂(むりょうじゅぶつどう)(=鉄斎の画室のこと)ニ詣テ先生ノ種種雑談又珍書ヲ拝見シ午後六時半辞出セントス…(中略)…鹿湾謹顕
 
 

 
十便十宜図帖(箱書)
 十便十宜図帖(じゅうべんじゅうぎずじょう)(箱書)

 鉄斎は池大雅と与謝蕪村の「十便十宜図」を何度も見て、そのたびに模写をして楽しんだという。その模写の箱書には、大正13年(1924)5月に鉄斎が「懇友(こんゆう)」である鹿湾医伯(巻太郎のこと)に送ったと記される。
【箱書】
余、大雅蕪村が画く所の十便十宜図を観ること数回なり。観る毎に模写し以て楽しみと為す。今之を「懇友」鹿湾医伯に貽(おく)る。因って其の由を題すと云ふ。/大正甲子五月/八十有九叟/鉄斎外史
 

 
蘭亭四十三賢之図涼炉
蘭亭四十三賢之図涼炉(らんていしじゅうさんけんのずりょうろ) 1基
白泥素焼
青木木米(あおきもくべい)作
江戸時代後期(19世紀


 蘭亭の宴をあしらった白泥素焼きの涼炉(煎茶道で湯を沸かす道具)。巻太郎は憧れの鉄斎に何度も面会を求めたが、2年間門前払いだったという。そこで会ってもらえないならこれを見てほしいと、所有する木米作の涼炉を鉄斎に預けることによって審美眼を認めさせる突破口とし、晴れて面会が叶うこととなった。
 

 
富岡鉄斎書簡(年賀状)
富岡鉄斎書簡(年賀状) 1通
紙本墨書
鉄斎89歳
大正13年(1924)


 巻太郎のもとに鉄斎から送られた初めての年賀状。新年を質素に迎えているというが、完成した2棟の書庫の雄大な姿に鉄斎の文人としての気概が感じられる。のちに巻太郎が受領する「新年楽事図」にも同じ賛が記されている。
【文面の大意】
大正13年の新年を迎え濁酒と質素な料理で祝い酒を傾けているが、万巻もの古今の書物を集めた2棟の書庫(「魁星閣(かいせいかく)」と「賜楓書楼(しふうしょろう)」)が堂々と青空にそびえている。