高月観音の里資料館
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特別陳列
 「雨森芳洲の漢詩と和歌」



  期間: 令和3年1月26日(水)- 3月14日(月)
開催趣旨
 江戸時代中期に対馬藩に仕えた長浜市出身の儒学者・雨森芳洲(1668~1755)は、卓越した外交思想を実践した外交家であり、優れた教育者・言語学者としても知られています。その関係資料は、平成29年(2017)、「朝鮮通信使に関する記録」として、ユネスコ「世界の記憶」にも登録されました。
 芳洲は9歳の時の漢詩をはじめ、生涯にわたって詩作に励み、朝鮮や日本の文人らと詩文の交流を行いました。また、晩年81歳の頃から和歌を学び始め、『古今和歌集』千遍読みと、和歌1万首の詠草を成し遂げました。
 この特別陳列では、雨森芳洲関係資料(重要文化財・芳洲会所有)の中から、芳洲の「漢詩と和歌」に焦点をあて、書軸や著書類を紹介し、生涯、衰えることのない向学心を持ち続けた芳洲の一面に迫ります。また、近年発見された芳洲の直筆資料の公開も行います。

主 催:高月観音の里歴史民俗資料館
協 力:芳洲会

主な展示資料
展示資料 16件19点
1.   ◎雨森芳洲肖像  1幅  延享5年(1748)カ
2.   ◎李東郭七律・附雨森芳洲識語  1幅  
     李東郭七律「贈雨森芳洲」    正徳3年(1713)
     雨森芳洲識語      元文2年(1737)
3.  ◎李東郭七絶「遊仙詩」  1幅  正徳元年(1711)
4.  ◎縞紵風雅集・同附集  8冊のうち2冊  正徳元年(1711)
5.  ◎韓客唱和集  6冊合冊  正徳元年(1711)
6.  ◎瀬戸内海航行詩  1冊  正徳4年(1714)
7.  ◎雨森芳洲詩稿  1冊  江戸中期
8.   ◎松浦霞沼挽詩  1通  享保13年(1728)カ
9.  ◎七絶「示嫡孫連」  1幅  元文5年(1740)
10.  ◎七絶「京城為一坂城二」云々  1幅  江戸中期
       ほか
   ◎…重要文化財    
関連事業
■展示説明会
    
  時:令和4年2月19日(土) 午後1時30分から
      所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 
 おもな展示資料
 
1.雨森芳洲肖像
 1幅
 重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」登録資料
 江戸時代中期 芳洲会蔵

 唐服をまとい、袖に手を入れ胸前で拱手(きょうしゅ)し、儒巾(じゅきん)をかぶった晩年の姿で、朝鮮通信使画員の作と伝える。そうであるとすれば、延享5年(1748)第10次通信使、芳洲81歳のものか。
 『雨森家系』の雨森龍山(二橘)記によれば、かつて芳洲の肖像画は5幅存在したようで「二幅所持、一幅松浦預ケ、一幅仁位預ケ~小川俊之亮方預リ、一幅田口預ケ」とある。また『雨森先生之事』(九州大学文学部史学科蔵)には「先生肖像、老若ノニ幅有之、御若年ノ像ハ松浦儀兵衛所持、御老年像ハ雨森家ニ近年所持、寛兵衛噺」とあり、老若数種あったようである。芳洲会蔵品2点以外、永くその他の肖像の所在は不明であったが、令和2年(2020)、本作と酷似した肖像画が発見され、現在、長崎県の対馬市朝鮮通信使歴史館において公開されている。
     
6.瀬戸内海航行詩(せとないかいこうこうし)
 1冊
 重要文化財
 正徳4年(1714)
 雨森鵬海筆 芳洲会蔵

 芳洲の長男である雨森鵬海(ほうかい)が、父芳洲と共に瀬戸内海を航行中に作った詩を収める。芳洲の原詩を示し、これに和韻した作が多い。夷崎・小倉・赤間関(下関)・周防洋・上関・鞆浦・備前洋・室浦等と東上し、「総五十三首」とあり、「十月二日抵大坂城」として落合江1首を巻尾に据える。
 ※和韻・次韻…漢詩の韻の一つの体裁で、他人の詩と同じ韻字を同じ順序に用いて詩を作ること。

     
11.二行書「箕裘之業云々」(ききゅうのぎょううんぬん)
 1幅
 寛保元年(1741)
 雨森芳洲筆 芳洲会蔵

 寛保元年、芳洲74歳の時の書。令和2年(2020)に京都で発見された。14文字が揮毫され、七言絶句あるいは七言律詩の一部分か。「七十四歳書」とあるのみで署名はないが、書風は芳洲の同時期のものに酷似し、落款印「伯易」も共通することから、芳洲直筆と判断される。同じ時期に肖像画も発見され、こちらは令和3年10月に開館した対馬市朝鮮通信使歴史館において公開されている
     
12.五言絶句「亂竹開三径」(らんちくさんけいをひらき)
 1幅
 延享3年(1746)
 雨森芳洲筆

 延享3年、芳洲79歳の時の書。平成17年(2005)に京都で発見された。書風は芳洲会所蔵の芳洲晩年の書に通じ、引首印「樂此不為獨」・落款印「伯昜」も共通する。芳洲が書を残したのは、70歳代後半以降の最晩年の約10年間に限られ、新たな芳洲の関係資料として注目されている。

     
15.芳洲詠草(ほうしゅうえいそう)
 22冊のうち3冊
 重要文化財
 寛延元年(1748)~宝暦4年(1754)
 雨森芳洲著・筆 芳洲会蔵

 芳洲は晩年81歳の頃から和歌を学びはじめ、『古今和歌集』の千遍読みと和歌一万首の詠草を志した。千遍読みは、寛延元年12月晦日より始め、読むペースは次第に速くなり、翌年8月28日に達成した。その成就に際し、次のように感想が歌われている。
・古うたをつとめて読みし老の身の 今日は重荷をとく心地すれ
・老らくの言葉の花をもとむるは 敷島ならぬはつかしの森(第十巻)
また一万首の詠草は、寛延元年8月23日に開始し、同3年8月22日にはすでに一万首に達し、さらにその後も精力的に詠み続けた。
 芳洲は、漢詩と和歌は表現こそ違え、その実同等と考えていたようで、第12巻に「詩は漢語の精華なるものなり、歌は和語の精華なるものなり」とも記している。
 また、第7巻にはみずからの出自等について、「余之先出于近江浅井家之豪族云々」と記し、雨森村出身であることを表明し、また自ら足れりとした晩年の心境を述べている。
     
     
  
 
  
16.芳洲歌論(ほうしゅうかろん)
   1巻 重要文化財
   江戸時代中期
   雨森芳洲筆 芳洲会蔵

 孫である雨森涓庵(けんあん)の成婚を賀し、この嫁女と初対面の時の歌2首、および古今集仮名序にちなむ和歌の徳についての持論を述べたもの。2首目の左注に「やつかれ伊勢にそたちたる者なれは也」となるのは、芳洲伝の上で注目される。
 後に、老子の語を引き、君子小人論を展開して垂訓し、論語の朱注にも引用の旨を述べ、「四極二十一日」とある。あるいは宝暦4年(1754)涓庵28歳の12月21日、芳洲87歳の筆か。
 
 

 
特別陳列
 「磯野・金蔵寺の仏教美術」



  期間: 令和3年10月13日(水)- 12月6日(月)
 
開催趣旨
 長浜市高月町磯野は余呉川沿岸に広がる集落です。式内社赤見(あかみ)神社が鎮座し、女装する「嫁オコナイ」が知られています。また戦国時代には浅井氏に仕えた有力武将・磯野氏を輩出し、余呉川の対岸磯野山には磯野山城址が、集落内には同氏の居館跡が残されています。
 金蔵寺は、黄檗宗(おうばくしゅう)(本山は京都府宇治市の萬福寺・まんぷくじ)に属する寺院です。黄檗寺院は湖北地方には少なく、長浜市内では唯一の存在です。寺伝によれば、平安時代・延長年間(923~31)の草創といい、もとは天台宗に属して幸蔵寺と号しましたが、文和年間(1352~56)、兵火にかかり、わずか一堂を残して焼失したといいます。降って江戸時代の延宝3年(1675)、僧雲岩(うんがん)が再興し、宝正山金蔵寺と改め、黄檗宗に転宗したと伝えます。
 金蔵寺には、本尊釈迦如来像をはじめ、阿弥陀如来像(平安時代)、十六羅漢(らかん)像、仏画類や大般若(だいはんにゃ)経(長浜市指定文化財、鎌倉~南北朝時代)など数多くの仏教美術・文化財を伝えています。
 この企画展示では、普段公開されていない金蔵寺の仏教美術を展示公開し、湖北地方の信仰文化の一端に触れていただく機会とします。

主 催:高月観音の里歴史民俗資料館

主な展示資料
展示資料 16件40点
・木造釈迦如来坐像        1躯
・木造阿弥陀如来坐像       1躯
・木造十六羅漢像          16躯
・十界八大地獄図           1幅
・隠元禅師像             1
・雲岩和尚像             1幅
・雲岩和尚墨蹟(志源印可状) 1面
・△大般若波羅蜜多経      10帖(558帖のうち)ほか

△…長浜市指定文化財
 おもな展示資料
 
十六羅漢 第7像 十六羅漢 第11像  十六羅漢 第5像
     
 2.十六羅漢(らかん)像 16躯
 江戸時代、寄木造・彩色・玉眼

 羅漢とは「阿羅漢(あらかん)」の略で、一切の煩悩を断って修行の最高位に達し、尊敬と供養を受ける資格を備えた仏弟子や聖者のこと。この境地に達すると、迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。16人の高弟(十六羅漢)が、涅槃に入ろうとする釈迦から、「永く現世にとどまり仏法を護持して衆生を救済せよ」といわれ、各地で仏法を守り伝えたという。
 
3.阿弥陀如来坐像
 平安時代後期(12世紀)、寄木造・漆箔・彫眼

 弥陀来迎印を結ぶ阿弥陀如来像。お椀を伏せたような肉髻(にっけい)の形、伏し目がちの穏和な表情、抑揚をおさえた体躯の表現などに、平安時代後期、藤原彫刻の特徴がみられる。もとは彦根の南泉寺(なんせんじ)に伝わったが、寺域が名神高速道路の工事にかかり、南泉寺は金蔵寺に統合され、仏像・仏画類も移されたという。
     
5. 隠元隆琦(いんげんりゅうき)像 1幅
  江戸時代・延宝2年(1674)、掛幅装、絹本・著色

  隠元隆琦(1592-1673)は、中国・福建省出身の禅僧。承応3年(1654)63歳で来日し、後水尾天皇や将軍家、諸大名らの帰依を得て、京都・宇治に黄檗(おうばく)山萬福寺を開創した。日本に黄檗禅を広めたばかりでなく、明朝体、煎茶、普茶(ふちゃ)料理、隠元豆など、中国のさまざまな文化を伝えた功績は大きい。本図では、左手に払子(ほっす)[※1]と右手に拄杖(しゅじょう)[※2]を執り、「曲禄(きょくろく)」と呼ばれる椅子に腰掛ける隠元禅師が、正面向きに描かれている。
 賛は、月潭道澄(げったんどうちょう)(1636-1713)の筆。月潭は、彦根出身の黄檗僧で、隠元の付き人を務めた人物。

【語句説明】
※1…払子
払子は、仏教の法要の際に僧が威儀を示すために用いる法具。
獣の毛や麻などの繊維を束ねて柄をつけたもの。
もとは、インドで蚊や蠅など虫を追い払うために使われた道具。

※2…拄杖
拄杖は杖(つえ)のこと。
禅僧が行脚の際に用いる杖を「拄杖」と呼ぶ」。また説法の際にも用いる。
     
     
 13.△大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう) 10帖(558帖のうち)
 鎌倉~南北朝時代、折本装・紙本・墨書(一部版本) 長浜市指定文化財

 もとは尾州中嶋郡(現・愛知県稲沢市)の性海寺(しょうかいじ)に奉納された経巻。当初の巻子装を折本に改装したもの。経巻のほとんどは、南北朝時代、永和2年(1376)から康暦2年(1380)に書写されたもので、同地の土豪・中嶋一族ゆかりの沙弥自金(源左衛門尉長久カ)なる人物が大願主となって勧進され、性海寺に奉納された。
 江戸時代には、性海寺39世住職が総持寺(そうじじ・長浜市)に入寺、己高山法華寺(木之本町古橋)の頼景(らいけい)が42世住職に迎えられるなど、同寺と湖北寺院の交流はしばしばみられ、この経巻が移された背景も、そのあたりに求められそうである。本資料は、鎌倉時代に溯る写経として、また中世から近世にかけての尾張(現・愛知県)の寺院と湖北寺院との関わりを考える上でも貴重。
     
関連事業
■展示説明会
    
  時:令和3年11月13日(土) 午後1時30分から
      所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 
 

 
同時開催
 特集展示「高月の史跡・古墳と出土品」



  期間: 令和3年10月13日(水)- 12月6日(月))
 開催趣旨
 湖北地方は、古来交通の要衝で、各地との交流も盛んにおこなわれていました。高月町の古保利(こほり)古墳群からは、大陸との関わりを示す漢鏡、銅鏃などの貴重な考古資料が数多く出土しています。
 本展では、市域(高月町)に所在する史跡・古墳とその関連出土品を展示紹介し、市民や子どもたちに地域の歴史を再発見する機会を提供します。

主な展示資料
・高月南遺跡…………子持勾玉 2箇
・物部(ものべ)遺跡…巴形銅器 1個
・古保利古墳群………銅鏡 2枚、鉄鏃 2点、土師器(はじき)2点、ベンガラ入り須恵器(すえき)坏1点

  おもな展示資料
 
子持勾玉
 高月南遺跡小字エンコシ出土 個人蔵
 古墳時代(6世紀頃) 重要美術品

 子持勾玉(まがたま)は、親勾玉の背・腹・側面などに子勾玉が付属したものである。使用目的は諸説あるが、子孫繁栄に関する呪術的な祭祀遺物(さいしいぶつ)と考えられる。本資料は丸く厚みがあり、優美かつ均整のとれた姿で、精巧に製作されている。子勾玉は一部欠損するが、体部にはヘラ工具によるケズリ痕(こん)が残存する。材質は滑石(かっせき)。
     
内行花文鏡(ないこうかもんきょう)
 小松(こまつ)古墳出土(古保利古墳群)
 1面(破片)
 舶載鏡(はくさいきょう・1世紀後半頃)

 内行花文鏡は、中国の後漢時代(25~220年)の銅鏡。鏡背(きょうはい・裏面)に、内に向かう弧線(こせん)を連続させた幾何学的な文様がある。日本では、弥生時代の墓や古墳時代前期の古墳から多く出土している。この鏡は祭祀に使われたと見られ、故意に破砕(はさい)されている。推定直径は約21㎝。舶載鏡とは、大陸から船に載せられ、我が国にもたらされた鏡のこと。小松古墳は3世紀前半の前方後円墳で、銅鏡は古墳に葬られた首長(しゅちょう)の先祖から伝世されたものと考えられる。
     
方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)
 小松古墳出土(古保利古墳群) 1面(破片)
 舶載鏡(1世紀前半頃)

 方格規矩鏡は、鏡背にある鈕(ちゅう)の周りに方形の区格(方格)があり、区画の外側の文様が定規(規矩)などに似ているためこの名がある。本鏡の背面の文様は、かなり朦朧としている。伝世(でんせい)による磨耗や、完成品を鋳型(いがた)粘土で作られ、焼成(しょうせい)により土器化(どきか)したもの)に押し付け繰り返し鋳造した「踏み返し」が原因かもしれない。推定直径は約14cm。
 
 
特別陳列「子どもと川で遊んだホトケたち
~西黒田・安念寺の「いも観音さん」~」の会期延長について

 高月観音の里歴史民俗資料館では、現在、特別陳列「子どもと川で遊んだホトケたち~西黒田・安念寺の「いも観音さん」~」を開催中ですが、来館者の皆様からたいへん好評をいただいております。
 コロナ禍ではありますが、リピーターや遠方からの来館者の要望におこたえし、会期を7月19日(月)まで延期することとしました。
 是非この機会に、いも観音さんに会いに来てください。


 
特別陳列
 
子どもと川で遊んだホトケたち
    
~西黒田・安念寺の「いも観音さん」~

     

  会 期: 令和3年5月12日(水)-7月19日(月)【会期延長】
 
開催趣旨
 滋賀県の北東部、湖北地方には観音像をはじめ多くのホトケたちが残されています。そしてホトケたちは、地域の人々の暮らしに根付き、ホトケへの信仰心とともに、人々に長く受け継がれ守られてきました。湖北のホトケたちは、地域の人々の暮らし方や風土と深く結びついているのです。
 木之本町黒田西黒田は、賤ケ岳(しずがたけ)の南麓に位置し、戦国武将黒田氏(官兵衛の家)発祥の地と伝えられています。西黒田集落の奥、山沿いに建つ安念寺(あんねんじ)は、奈良時代・神亀3
年(726)の草創といいます。この堂には、朽損(きゅうそん)した像ばかり17躯の平安古仏が伝わりましたが、近年、二度の盗難に遭い、現在は10躯のみ安置されています。
 寺伝によれば、信長による兵火の際、この寺も焼失しましたが、仏像は門前の田の中に埋めて隠して難を逃れたといい、その際に、像は大きく損傷したと伝えます。昭和の初め頃までは、「夏には子ども達が堂から朽損した像を運び出し、村を流れる余呉川に浮かべて水遊びをしていた」・「村の大人達が川で仏像を洗う風習が伝わっていた」ともいいます。また農繁期には田んぼの畦(あぜ)に運び、子どもの守(も)り(遊び相手)をしてもらったそうです。
 江戸時代に制定された江州伊香三十三所観音霊場の第18番札所。当時の版木には、「ほうそうの守仏(まもりぼとけ)」とあり、像表面が傷んでいることから「いも観音さん(注1・2)」と呼ばれ、皮膚病に効験のある「身代わり観音」として信仰されていたことがわかります。
 今春、クラウドファンディングを資金とした観音堂の改修工事にあわせて、安念寺の「いも観音さん」が、すべて高月観音の里歴史民俗資料館に預けられたことから、全10躯を展示公開します。本展を通じ、湖北地方の信仰文化の一端に触れていただければ幸いです。
            
 
西黒田安念寺、堂内
※(注1)…「いも観音さん」の「いも」とは?
 かつて、伝染病(疱瘡(ほうそう):天然痘(てんねんとう))が流行しました。罹患(りかん)すると高熱や全身に発疹が出、治癒後も皮膚に痕跡が残りました(いわゆる、あばた顔)。
 その瘡蓋(かさぶた)のことを「いも瘡(がさ)」とも言いました。仏像表面の荒れから、「いも観音さん」と呼ばれ、皮膚病に効験あり(身代わり)と信仰されてきました。安念寺のほか、全国には「いも薬師」「いも地蔵」なども伝わっています。
※(注2)…どの像が「いも観音さん」?
 10躯すべてが像表面の荒れた像です。10躯すべてが「いも観音さん」であり、安念寺のことを「いも観音さん」と呼んでいます。

展示のポイント
・西黒田の「いも観音さん」は、戦火の中、田んぼに埋めて守ったと伝え、10躯いずれも朽ちて傷んでいます。傷んでもなお、村人たちに親しまれ、信仰され、大切に守られてきました。まさに、湖北の観音信仰の象徴的な存在といえます。
・お堂の改修工事のため、高月観音の里歴史民俗資料館にお預かりした「いも観音さん」を特別公開。「いも観音さん」10躯すべてが堂外で公開されるのは、今回が初めてです。
・西黒田の安念寺では、令和2年8月から10月にかけて、お堂改修のために、クラウドファンディングで募金を呼びかけました。当初の目標額200万円をはるかに上回る550万円余が集まり、今春、無事、改修工事の着工となりました。この展示の中では、クラウドファンディングのあらましも紹介しています。
・資料館での展示は、お堂で拝する時とはまた違った、惹きつけられる表情を拝することができます。


 
展示資料 「いも観音さん」10躯

(1)如来形立像 甲像    像高146.7cm
(2)如来形立像 乙像    像高135.3cm
(3)如来形立像 丙像    像高142.8cm
(4)菩薩形立像 甲像    像高152.5cm
(5)菩薩形立像 乙像    像高149.5cm
(6)天部形立像       像高 95.5cm
(7)如来形立像 丁像    像高 93.0cm
(8)破損仏   甲像    像高 45.2cm
(9)破損仏   乙像    像高 43.2cm
(10)破損仏   丙像    像高 41.5cm

主 催/高月観音の里歴史民俗資料館
 力/木之本町黒田西黒田・安念寺


※「いも観音さん」10躯のうち、5躯(1~5)は像高約135~153cmのほぼ等身像、2躯(6・7)は像高約100cmのいわゆる三尺像、残りの3躯(8~10)は胸から下や下半身を失った破損仏。
関連事業
■展示説明会
  
  日時:令和3年6月12日(土) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
(1)如来形立像(にょらいぎょうりゅうぞう) 甲像 像高146.7cm 平安時代
  長浜市木之本町黒田西黒田 安念寺蔵

 ヒノキとみられる一材から彫出し、内刳(うちぐ)りは施さない。両手・両足などを欠くが、衲衣(のうえ)を着すことから如来として造られたことがわかる。面相部、右手は上腕部から先、垂下した左手先、裳裾以下、足先を失い、当初の尊名はわからないが、村では薬師如来と伝えられてきた。表面の一部に漆が残ることから、当初は漆箔(しっぱく)像であったことがわかる。堂々とした体躯、豊かに盛り上がる胸・腹、腰から両脚に刻むX字状の衣文など、全体にボリュームのある像で、平安時代も10世紀頃の作と考えられる。
 
   
(2)如来形立像 乙像 像高135.3cm 平安時代 長浜市木之本町黒田西黒田 安念寺蔵

 針葉樹(ヒノキか)の一材から彫出する。頭上に螺髪(らほつ)を刻み、衲衣を着す如来の姿。背と腰から下、上下2段に内刳りを施すも、背板(せいた)は欠失する。左手は垂下し、右手は屈臂するが、いずれも手首から先を欠失し、印相・持物ともに不明のため、当初の尊名は不詳。裳裾以下、足先も欠く。量感を保ちながらも作風は穏やかであり、平安時代後期の作とみられる。本像も表面の一部に漆が残ることから、当初は漆箔像であったことがわかる。
 
 
   
(4)菩薩形立像(ぼさつぎょうりゅうぞう) 甲像 像高152.5cm 平安時代
  長浜市木之本町黒田西黒田 安念寺蔵

 本像は、針葉樹(カヤか)の一材から彫出し、内刳りは施さない。頭上に髻(もとどり)を結い上げ、条帛(じょうはく)・天衣(てんね)・腰裳(こしも)を着す菩薩の姿。左手は上腕部から先、垂下した右手は手首から先を失い、当初の尊名は判じがたい。裳裾以下、足先も欠く。表面の一部に漆が残ることから、当初は漆箔像であったことがわかる。堂々とした広い肩幅、細く絞まった腰量感豊かな下半身など、平安初期彫刻の名残をよくとどめている。9世紀から10世紀にかけての作とみられる。
 
   
左/(6)天部形立像(てんぶぎょうりゅうぞう)    像高 95.5cm
右/(7)如来形立像 丁像 像高 93.0cm 平安時代  長浜市木之本町黒田西黒田 安念寺蔵

 
寺伝によれば、「(4)天部形立像」は毘沙門天(びしゃもんてん)、「(5)如来形立像④」は大日如来(だいにちにょらい)と伝えるが、いずれも両肩から先と足先を欠失し、当初の尊名はわからない。両像ともヒノキとみられる一材から彫出し、内刳りは施さない。肉付けを強調しない点などから、平安時代も後期、11世紀頃の作かと推測される。
 
 

 

 
特別陳列 布施美術館名品展11
 「
吉祥と花鳥~鉄斎・大雅・玉堂・木米~



  期 間: 令和3年3月10日(水)-5月10日(月)
  ◆会期中休館日:3月21日、4月30日、5月6日
 
開催趣旨
 長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎(ふせまきたろう)(1881-1970)が収集した富岡鉄斎(とみおかてっさい)(1836-1924)をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料など数多くの貴重なコレクションを収蔵する美術館です。
 初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。
 今回は所蔵品の中から、吉祥(きっしょう)と花鳥をテーマとした画人・工人たちの作品に焦点をあてます。吉祥とは、めでたいきざし、良い前兆、祝いの儀式や祝意を表す画題を示します。また花鳥は、草花や鳥類をテーマにしたもので、草花を通して四季を楽しみ、鳥を通して自然に思いをはせ、自由で風雅な心に浸ることです。
 コロナ禍等で明るいニュースの少ない昨今ですが、先人の遺した優れた吉祥画や花鳥図と、布施巻太郎の心にふれ、郷土文化としての布施コレクションの価値を再発見してください。

展示内容
① 鉄斎が描いた吉祥と花鳥
「寿老人図」、「不盡山晴景図(ふじさんせいけいず)」等めでたい画題や、春の訪れを告げる「鶯宿梅図(おうしゅくばいず)」「桜花図」、「吉野山春景図」、陶器の「香合 富士形」(初公開)、鉄斎が亡くなる直前に巻太郎に贈られた「維摩居士像(ゆいまこじぞう)(鉄斎自画像)」等の作品を紹介します。

② 玉堂と大雅の風雅な世界観
浦上玉堂(1745-1820)の愛用品の「七絃琴(しちげんきん)」や「松下弾琴図」、NHK新春ドラマ「ライジング若冲」で話題となった画人・池大雅(1723-76)の「三味線図」「王義之図(おうぎしず)」を紹介します。

③ 青木木米と花鳥風月
作陶家として知られる青木木米(あおきもくべい)(1767-1833)が描いた「夢中山水図」「東山閣桜下酒宴図」等の絵画や、陶器の「梅花図 方盃」、鉄斎と巻太郎を結ぶきっかけとなった陶器「涼炉 蘭亭之図 刻(とき)」等を紹介します。


主 催/高月観音の里歴史民俗資料館
 力/一般財団法人 布施美術館


展示品/27点
             
関連事業
■展示説明会
  
  日時:令和3年4月24日(土) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
(1)寿老人図(じゅろうじんず)
 縦132.5㎝ 横32.5㎝ 1幅
 大正12年(1923)
 富岡鉄斎筆

 「南方録」「風俗記」によると、中国宋代の元祐年間(1086-1094)に、白髪で頭の長さが三尺(約91㎝)、体の長さも三尺の異様な老人が現れた。彼は宮中に召され、摂政であった宣仁皇太后の前で酒を賜った。彼の正体は、南極老人星の神で天下泰平のため出現し、市中を遊卜したのである。我が国では、七福神の一人として親しまれ、信仰されてきた。
 本作品は、頭の細長い老人(南極老人星の神)が自分の背丈より長い杖をついて、市中をゆっくりと歩く姿を描いたもの。鉄斎最晩年の米寿の作。
   
(2)兒嬉図(じきず)
 縦127.5 ㎝ 横34.5㎝ 1幅
 明治13年(1880)
 富岡鉄斎筆

  唐服姿の大道芸人が、額に棒をたてて碗をのせ、回転させている。芸を披露する大道芸人の周りには唐子姿の子ども達が、手を広げてはしゃいでいる。同じような題材の「曲芸図」という作品でも、大道芸人が描かれており、鉄斎は、中国の歴史や文化に関心を寄せていた事が分かる。鉄斎45歳の作。
 
 富岡鉄斎(とみおかてっさい)(1836-1924)
 京都三条衣棚(京都市)の出身。大角南耕と窪田雪鷹に画の手ほどきを受け、国学を野之口隆正、漢学を岩垣月洲に学んだ。また陽明学を春日潜庵、仏教と詩文を僧羅渓慈本に学んだ。宇喜多一蕙・小田海僊に大和絵と南画を学び、いろいろな画家から画法を貪欲に吸収したとされる。若い頃から勤皇思想を抱き、倒幕の志士らと交わった。
 維新後は、湊川神社・石上神社の神官、大鳥神社の大宮司を勤めた。明治14年(1881)、職を辞して読書と作画に専念することになった。鉄斎は、北宋の蘇東坡(そとうば)に強く共鳴し、詩文伝記から数多く取材している。「万巻の書を読み万里の道を行く」という文人画家の理想を、鉄斎は身をもって実践した。 
鉄斎は、文人画が最後の輝きを放った明治・大正期に多くの名作を生みだし、文人としての生き方を理想としたことから、最後の文人画家と呼ばれている。鉄斎は、大正13年(1924)89歳で亡くなる直前まで作品制作を続けた。生涯で、その制作数は1万点以上にのぼるといわれている。
 
   
(3)王義之図(おうぎしず)
 縦75.8㎝ 横36.5㎝ 1幅
 江戸時代(18世紀)
 池大雅筆

 王羲之(303-361)は書聖ともいわれる中国・東晋(とうしん)時代(265-420)の書家。
 楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之(おうけんし)とともに二王と呼ばれた。
 本作品は、歴史上の人物を、おだやかで伸びやかに描いた大雅らしい筆致の作品である。
 
 池大雅(いけのたいが)(1723-76)
 江戸時代中期の画家・書家。障壁画から書巻に至るまで、多数の作品を残した。作画法は、指頭画(しとうが)・金碧画(こんぺきが)・たらし込みなどの多彩な手法を用いた。画は土佐光芳に師事したと伝わり、南画は柳沢淇園と祇園南海から教えを受けた。
 また、富士登山、白山・立山にも登り、奥州・金沢など各地を旅行してスケッチを行い、独自の南画の様式を作りあげた。
 今年の、NHK新春テレビドラマ「ライジング若冲 天才かく覚醒せり」では、池大雅も話題となった。
※作品名「王義之図」であるが、歴史上の人物名は「王羲之」である。
 
(4)七絃琴(しちげんきん)
 長109.0㎝ 天明9年(1789)  1面
 木造漆塗 浦上玉堂作

 玉堂は詩書画にすぐれていたが、琴の演奏を最も得意とし、作曲や制作も行っている。号の玉堂は、中国・明の名士・顧元昭(こげんしょう)作の琴に記された「玉堂清韻(ぎょくどうせいいん)」に由来する。寛政3年(1791)発刊の『玉堂琴譜(きんぷ)』には、顧元昭の琴を入手した経緯や日本古来の琴の楽譜、玉堂の琴に対する考えが記される。
 またこの七絃琴は、その後に鉄斎が所有し、七絃琴の琴嚢(きんのう)(琴を入れる袋)は、2つが伝わっている。一つは玉堂が山水を描き、脱藩後に住んだ京都の文人たちが揮毫したもの。もう一つには、鉄斎が袋全面に玉堂伝を書き連ねている。玉堂と鉄斎2人の異彩を放った文人を繋ぐ作品といえるもので、巻太郎に贈られた。
   
 浦上玉堂(うらかみぎょくどう)(1745-1820)
 江戸時代後期の画家。鴨方藩(岡山新田藩)に仕え、陽明学系統の儒学を学び、詩文に長じ、琴を得意とし、画は独学で南画を学んだ。作品は、多くが水墨画であり、作風は、南画独特の空想的な山の突起を独特の筆致で積み重ねるものとなっている。
(5)涼炉 蘭亭之図 刻(とき)
 高さ29.9㎝ 口径18.8㎝ 1基
 江戸時代(19世紀)
 青木木米作

 凉炉とは煎茶の際に用いられた湯を沸かす道具である。作者の青木木米(あおきもくべい)(1767-1833)は江戸時代京都で活躍した陶工であり、とくに急須をはじめとする煎茶器の製作で知られる。また頼山陽(らいさんよう)といった当時の文人たちと交流があり、文人画家としての才能も発揮し、著名な作品を残している。
 本作は巻太郎が所有したもので、鉄斎との交際のきっかけとなった作品である。鉄斎は、大正6年(1917)帝室技芸員に、大正8年(1919)帝国美術院会員に任命され、80歳を過ぎて日本美術界の重鎮となっていった。
 それ以前より、その名が知られていた鉄斎の下には、数え切れないほどの作品依頼者や訪問者が訪れた。ほとんどの面会は謝絶され、鉄斎との面会を夢見て敦賀から足繁く京都の鉄斎宅へ通った巻太郎も例に漏れなかった。しかし本作を持参したところ、その鑑識眼が認められ大正11年(1922)ついに憧れの鉄斎との面会を果たした。
 本作には鉄斎の箱書も残されており、日本で唯一学識があり陶工としてすぐれのはただ青木木米のみであると、木米を称賛していることが分かる。巻太郎と鉄斎を繋ぐことになった記念碑的作品である。
 青木木米(あおきもくべい)(1767-1833)
 青木木米(あおきもくべい)(1767-1833)は江戸時代後期の京窯(きょうがま)の名工。陶工宝山に陶器を学び、磁器を奥田穎川(おくだえいせん)に学んだと伝えられる。陶技が円熟すると、和歌山藩、金沢藩から招聘を受け指導した。また、粟田御所・青蓮院の御用窯も担当した。技法は多岐で、中国陶器・高麗・李朝の朝鮮陶器の模造、中国明代染付・青磁、朝鮮の雲鶴三島手・象嵌のほか、仁清写・南蛮写など幅が広い。永楽保全(えいらくほぜん)、仁阿弥道八(にんあみどうはち)とともに、京焼の幕末三名人と称された。
 
 

 

 
特別陳列
 「湖北長浜の国際人 -雨森芳洲と松井原泉・文貫-」



  期間: 令和2年10月28日(水)-12月7日(月)
 
開催趣旨
 湖北地方・長浜市は、江戸時代中期、九州対馬藩に仕えて朝鮮との善隣外交に尽力した雨森芳洲(1668~1755)の出身地として知られています。また、ほぼ同時期に、雨森村の隣村である井口村出身の松井原泉(げんせん) (1698~1762、別号・東湖(とうこ))とその子・文貫(ぶんかん)(1744~94、号・東嶠(とうきょう))は、膳所藩に仕えて朝鮮通信使の接伴役を務め、朝鮮文人と交流を深めました。
 長浜市は、朝鮮通信使の経路から離れ、雨森芳洲の出身地であることから、通信使との関係は、とかく「雨森芳洲だけ」と思われがちです。しかし、芳洲以外にも、それも雨森集落のすぐ隣の村にも、芳洲とほぼ時を同じくして、朝鮮通信使と交流を深めた儒学者親子が存在したことはまさに驚きです。朝鮮通信使の経路から離れた湖北の地ゆかりの人物が、外国との交流が極めて少なかった時代に、国際交流を実践していたという史実は、注目すべきものがあります。雨森芳洲と松井原泉・文貫親子は、江戸期における近江を代表する国際人といえます。
 この企画展示では、その関係資料をとおして、雨森芳洲の事績紹介のみならず、湖北の農村にも、国際的な文化交流を行っていた先人たちが存在したことを知っていただき、これからの国際交流・多文化共生について考える契機になれば幸いです。



展示のポイント
・長浜市は、朝鮮通信使の経路から離れ、また雨森芳洲の出身地であることから、通信使との関係は、とかく「雨森芳洲だけ」と思われがちです。しかし、芳洲以外にも、それも雨森集落のすぐ隣の村である井口村にも、芳洲とほぼ時を同じくして、親子二代にわたって朝鮮通信使と交流を深め、国際交流をおこなっていた松井原泉・文貫親子が存在したことは驚きです。
・松井親子が通信使と交流した史料は、朝鮮通信使研究のさらなる発展に大きな意味を持ち、また近世における湖北長浜市に関わる国際的な文化交流を知ることができる貴重な資料といえます。
・今春、新たに発見された雨森芳洲が74歳の時に書いた「箕裘之業(ききゅうのぎょう)云々(うんぬん)」(掛け軸)も初公開します。



主 催:高月観音の里歴史民俗資料館
展示資料 25件31点

             
展示風景
     
       
 おもな展示資料
 
1.雨森芳洲肖像画 1幅
 
重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」登録資料
 掛幅装・紙本著色、江戸時代後期
 縦74.6cm×横42.9cm
 芳洲会蔵(本館保管)


 対馬藩に仕え、朝鮮国との善隣外交に尽力した、本市出身の儒学者雨森芳洲(1668~1755)の肖像。唐服をまとい、袖に手を入れ胸前で拱手し、儒巾をかぶった晩年の姿。、朝鮮通信使画員の作と伝える。芳洲存命中に通信使は4回来日(15・45・52・81歳)していることから、通信使の作であるとすれば、延享5年(1748)、第10次通信使、芳洲81歳のものか。
     
2.李東郭七絶「遊仙詩」 1幅
 
重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」登録資料
 掛幅装・紙本墨書、正徳元年(1711)
 縦31.9cm×横60.5cm
 芳洲会蔵(本館保管)


 正徳元年(1711)に来日した第8次通信使の従事官李東郭(イトングァク)が、日本滞在中、芳洲に贈った漢詩。東郭は通信使の使節の中でも学問・文芸に秀でた人物であったという。芳洲と東郭は、江戸往復の道中、特に親交を深め、「異邦(いほう)の莫逆(ばくぎゃく)(国境を越えた親友)」としてその交友は生涯にわたった。
     
3.朝鮮通信使詩巻 朴矩軒ほか筆 1巻
 
巻子装・紙本墨書、寛延元年(1748)
 縦28.7cm×横374.6cm
 高月観音の里歴史民俗資料館蔵


 高月町井口出身の儒者松井原泉(げんせん)(1698~1762)は、膳所藩の藩命により膳所城下の茶亭において第10次通信使の接伴の任についた。本資料は、その際に交わした漢詩。製述官・朴矩軒(パククホン)、正使書記・李済庵(イチェアム)、副使書記・柳酔雪(ユチュイソル)、従事官書記・李海皐(イヘゴ)ら文人4名の漢詩が収められている。
 通信使の経路から離れる長浜市高月町井口にも、江戸時代に国際的な文化交流を行っていた人物が存在していたことは興味深い。
     
4.松井孝子賛 1巻
 
朴矩軒筆
 巻子装・紙本墨書、寛延元年(1748)
 縦27.9cm×横198.1cm
 個人蔵


 江戸時代のはじめ、原泉の親戚に松井宗右衛門というとても親孝行な人物がいた。その孝心を称えて原泉は、享保19年(1734)宗右衛門の伝記『松井孝子伝』をまとめた。
 寛延元年、膳所城下における通信使接伴の際、製述官・朴矩軒(パククホン)はこれを称賛し、賛文『松井孝子賛』を寄せた。
     
5.桑韓鏘鏗録 3冊
 
冊子装・版本、寛延元年(1748)刊
 縦26.4cm×横16.7cm
 薬師寺(奈良市)蔵


 内題には「十三家唱和筆語尺牘(せきとく)医談」とあり、寛延元年(1748)に来日した第10次通信使の一行と日本の文人らとの唱和筆談記録。井口の儒者松井原泉をはじめとする日本人12名と朝鮮の文士による唱酬詩と、浪華の医師百田金峯と通信使の医官・趙活庵(チョファルアム)による医事問答が記録されている。
 「桑韓(そうかん)」とは、扶桑の国「日本」と韓(から)の国「朝鮮」をさし、「鏘鏗(そうこう)」とは金や玉石がふれあって美しく鳴り響く音のたとえ。
     
     

     
 6.朝鮮通信使詩巻 南秋月ほか筆 1巻
 
巻子装・紙本墨書、宝暦14年(1764)
 縦29.5cm×横127.9cm
 個人蔵


 松井原泉が没した2年後の宝暦14年(1764)に来日した、第11次朝鮮通信使の文人と、原泉の子・文貫(ぶんかん)(号・東嶠(とうきょう)、字・子章(ししょう))が唱和した詩巻。
原泉の子・文貫もまた、亡き父と同じく、膳所藩の藩命により膳所城下において通信使の接伴の任につき、朝鮮の文人たちと交流を持ったことを伝える資料。 
 通信使の経路から離れた長浜市高月町にも、親子二代にわたって朝鮮通信使と交流をもった国際人が存在したことは、まさに驚きである。
     
 
関連事業
■展示説明会
    
  時:令和2年11月21日(土) 午後1時30分から
      所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 
 

 
特別陳列
 「長浜の出土品から見る日本の考古学」



          期間: 令和2年9月9日(水)-10月26日(月)
 
開催趣旨
 琵琶湖の北、湖北地方は、古くより交通の要衝で、各地との交流も盛んにおこなわれていました。長浜市からは、わが国最古級の考古資料が数多く出土しています。
  この企画展示では、これらの貴重な資料を一堂に集めて展示公開し、長浜の出土品をとおして日本の考古学を考える機会にしたいと考えます。
 あわせて、近年行われた高月町周辺の埋蔵文化財調査で出土した遺物も展示公開します。
なお、今回展示公開する資料は、すべて長浜市が実施した埋蔵文化財調査の出土資料です。この展示会を通して、全国に誇る長浜の歴史を、知っていただければ幸甚に存じます。



展示のポイント
・長浜市内の埋蔵文化財発掘調査では、全国に誇る成果が得られている。
・長浜市からは、全国の考古学研究者たちが注目する、わが国最古級の資料が多数出土している。
・この機会に多くの市民の方々に、かつて花開いた長浜の歴史を知っていただきたい。
・この特別陳列で展示される考古資料には、初公開の資料が多く含まれている。


主 催:高月観音の里歴史民俗資料館
展示資料 64件72点(予定)

             
展示コーナー
 縄文時代から近代まで特色ある遺跡出土品と、高月町周辺の最新調査の成果報告を6つのコーナーとして紹介し ます。
1「縄文時代の東西交流と縄文犬」(縄文時代)
2「弥生時代の部族長と大陸との関わり」(弥生時代)
3「古墳時代首長墓からの祭礼用具と古代文字」(古墳時代)
4「古代と中世の陶磁器の輝き」(古代・中世)
5「近代レンガ作りの駅舎」(近代)
6「埋蔵文化財 高月町周辺調査の成果―高月の歴史を知ろう―」
       
 おもな展示資料
 
合口甕棺(あわせぐちかめかん)
 
2点 高16.1 cm×口径21.6cm、
 高25.9 cm×口径23.1cm 小堀遺跡出土(小堀町) 
 縄文時代後期 約3,000年前 長浜市蔵


 小堀遺跡からは、東西文化交流の様子が確認されます。2つの土器の口を合わせる土器棺(合口甕棺)に使われた土器は、西日本と東日本の縄文土器が組み合わされていました。東日本では、住居の出入口に埋めた合口甕棺に、幼くして死んだわが子を入れました。出入口を母親が通ることで、子どもが再び母親のお腹に戻ることを祈ったとする風習です。合口甕棺を住居の出入口に埋めることは、西日本では小堀遺跡を含め4例しか確認されていません。東日本の風習の影響を受けたと考えられます。

     
弥生漆塗短剣飾鞘(やよいうるしぬりたんけんかざりさや)
 1点 縦17.5cm×横6.0cm×厚2.7cm
 川崎遺跡出土(川崎町)
 弥生時代前期 約2,800年前 長浜市蔵


 短剣の飾鞘としては日本最古級のものです。下地に黒漆が塗られ、その上に赤漆が施される丁寧なつくりとなっていました。鞘受け部には、立体的な彫刻として四角を重ねた雷文(らいもん)、側面には鰭(ひれ)の様な突起表現、鞘の胴部には縦方向の筋彫(すじぼり)がみられます。裏面には、紐通し用の台形状突出があり、腰や肩から鞘を提げていたと考えられます。また、剣身は金属であったかどうかは不明です。
 この鞘は、3周の濠(ほり)が巡る環濠(かんごう)集落の貯木場跡から出土したもので、集落を治めた部族長の権威の象徴として使用されたものと考えられます。

     
五銖銭(ごしゅせん)
 
1点 直径2.5cm、厚0.2mm、重3.2g
 鴨田遺跡出土(大戌亥町)
 弥生時代中期 約2,100年前 長浜市蔵


 五銖銭はわが国最古級の渡来銭です。全国でも鴨田遺跡以外では、2例しか出土していません。五銖銭は、前漢時代の紀元前118年に初めて鋳銭(ちゅうせん)(銭貨として鋳造)されたものとみられる中国からの渡来銭です。弥生時代中期(約2100年前)の溝跡より出土しました。当時の日本では、貨幣経済ではなく物々交換が行われていたので、五銖銭は、通貨ではなく朝献(ちょうけん)(前漢朝への朝貢(ちょうこう))に対する前漢朝からの贈答品との説があります。

     
刻書土器「ト(ぼく)(朴)」
 1点 高22.3cm×口径16.2cm 鴨田遺跡出土(大戌亥町)
 古墳時代前期 3世紀中頃 長浜市蔵


 河川跡の岸部に設定した祭祀場跡(さいしじょうあと)と思われる集石遺構からは、「ト(朴)」の文字が刻書された土器が出土しています。この刻書土器は、全国の遺跡から出土した刻書土器の中でも最古級のものです。トは二画で棒状工具の様なもので刻書され、一画目は縦棒、二画目は横棒によることが文字の観察により判明しました。また、河川跡の岸部の祭祀場跡からの出土品のため、祭祀用具の一つと考えられます。

 
関連事業
■展示説明会
    
  時:令和2年10月11日(日) 午後1時30分から
      所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 
■観音の里歴史民俗資料館友の会 第1回講演会【要予約】
  
  日  時:令和2年10月4日(日) 午後1時30分から
    会  場:高月まちづくりセンター2階多目的ホール
    テ ー マ:「日本考古学からみた湖北
           ―弥生・古墳時代の希少資料の評価をめぐって―」
    講  師:森岡秀人氏(関西大学非常勤講師、橿原考古学研究所協力員)
    受 講 料:500円(友の会会員は無料)
    受付期間:令和2年9月13日(日)午前9時から
    申し込み:受付期間中に高月観音の里歴史民俗資料館にお電話をおかけいただくか、
         資料館受付までお申し込み下さい。
    定  員:先着100名(人数に達し次第受付を締め切ります)

 
特別陳列
 「雨森・無動寺のホトケたち
       ~農村に眠る密教の輝き~」



                   期間: 令和2年7月22日(水)-9月7日(月)
 
開催趣旨
  滋賀県の北東部、湖北地方には観音像をはじめ多くのホトケたちが残されています。そしてホトケたちは、地域の人々の暮らしに根付き、ホトケへの信仰心とともに、人々に長く受け継がれ守られてきました。湖北のホトケたちは、地域の人々の暮らし方や風土と深く結びついているのです。
 長浜市高月町雨森(あめのもり)は高時川沿岸に広がった集落です。式内社天川命(しきないしゃあまかわのみこと)神社が鎮座し、また江戸時代に対馬藩に仕えて朝鮮との善隣外交に尽力した儒学者・雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の出身地として知られています。100戸余りの雨森の集落内には8ケ寺が建ち、様々な宗派に属しています。
 無動寺(むどうじ)は不動明王を本尊とし、別名「不動坊」とも称される、新義真言宗智山派(ちざんは)(本山は京都東山七条の智積院)に属する寺院です。康正(こうしょう)元年(1455)、僧慶養(きょうよう)によって開かれ、天川命神社の別当寺(べつとうじ)であったと伝えます。江戸時代中期、雨森村大橋氏出身の延教(えんきょう)が、神照寺(じんしょうじ)(本市新庄寺町)で学んだ後、当寺に入って復興したといいます。無動寺には、本尊不動明王をはじめ、多くの仏像・仏画が伝えられています。
 この企画展示では、普段公開されていない無動寺の仏教美術を特別公開し、湖北地方の信仰文化の一端に触れていただく機会としたいと考えます。


展示のポイント
・長浜市高月町雨森の無動寺は、これまでほとんど知られてこなかった真言宗寺院。
・真言宗寺院ではあるが、檀家は無く、長く地域住民(主に真宗門徒)が宗派の垣根を越えて護持してきた。
・江戸時代を中心とする仏像・仏画を多く伝えてきた。
・この特別陳列で展示される無動寺の資料は、いずれも初出品・初公開の資料。


主  催 高月観音の里歴史民俗資料館
協  力 雨森自治会
展示資料 14件17点(予定)

             
       
 おもな展示資料
 
(1)不動明王立像(りゅうぞう)
 
1躯 像高49.2cm、江戸時代、寛文元年(1661)、寄木造・
 彫眼(ちょうがん)・彩色、無動寺蔵(長浜市高月町雨森)


 本像は、中央の厨子に安置される当寺の本尊。不動明王は、密教における根本仏・大日如来の化身(けしん)といい、一切の衆生を救うために、剣を執り忿怒(ふんぬ)の相で導こうとする、密教特有のホトケです。本像は、眼光鋭い迫真の表情に特色があります。本像は、総髪(そうはつ)で両目を見開き、上の歯列で下唇を噛みます。台座裏の銘から、寛文元年(1661)、延養(えんよう)が住職の代に本尊として迎えたことがわかります。

   
(2)阿弥陀如来坐像
 
1躯 像高22.3cm、江戸時代・天和2年(1682)、寄木造・
 玉眼・着衣部漆箔(しっぱく)/肉身部粉溜(ふんだみ)
 無動寺蔵(長浜市高月町雨森)


両手を膝上に置き、左右の第一・二指を捻(ねん)じ阿弥陀定印(じょういん)を結ぶ阿弥陀如来坐像。肉髻(にっけい)が低く、衲衣(のうえ)の下に腹帯を着すなど、明朝様(黄檗宗(おうばくしゅう)の伝来とともに日本に伝えられた中国風の仏像様式)の影響がみられます。像底の銘から、天和2年(1682)、定朝(じょうちょう)第26代を名乗る京都の大仏師康祐(こうゆう)によって制作されたことがわかります。

   
(3)千手観音三尊像
 3躯 像高21.4cm(千手観音)、江戸時代
 寄木造・玉眼・素地/截金(きりがね)
 無動寺蔵(長浜市高月町雨森)


 千手観音を中尊とし、左右に天部像2躯を配した三尊像。二天は、向かって右に多聞天、左は広目天か。中尊千手観音は、左右の各一手を頭上に掲げて阿弥陀如来を載せる、清水寺式袋掛け観音の像容を示しています。当寺の北東にある観音寺本尊も袋掛けの姿を示すことから、何らかの関連性も想定されます。小像ながら、着衣部に施された截金は見事。
   
   
(4)種字両界曼荼羅図(しゅじりょうかいまんだらず)
 2幅 各縦42.8cm×横39.4cm(本紙)、江戸時代 紙本・木版、無動寺蔵(長浜市高月町雨森)

 両界曼荼羅は、真言宗の開祖・空海が唐から請来した密教の根本本尊です。『大日経』に基づく胎蔵界曼荼羅と『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』に基づく金剛界曼荼羅からなります。本作は、それぞれの仏尊を梵字(種字(しゅじ))で表す種字曼荼羅と呼ばれるものです。
   
(5)法印延教(ほういんえんきょう)像
 1幅 縦85.7cm×横39.8cm(本紙)、江戸時代、寛政10年(1798)
 絹本・著色、無動寺蔵(長浜市高月町雨森


 無動寺中興と伝えられる延教(えんきょう)(~1798)の肖像。延教は、雨森村大橋氏出身といい、神照寺(じんしょうじ)(本市新庄寺町)において真言を学んだ後、当寺に入って復興したと伝えます。碩学(せきがく)として誉高く、多くの門人がいたといいます。敷地には、門弟が建てた大型の墓石が残されています。
   
■展示風景  
   
 など
 
関連事業
■展示説明会
  
  日時:令和2年8月29日(土) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 
■第14回 観音検定ジュニア
  
  日 時:令和2年8月1日(土)~8月31日(日)
    場 所:高月観音の里歴史民俗資料館内
    対 象:小学生・中学生
    共 催:NPO「花と観音の里」
    内 容:展示を参考にしながら問題を解いていきます。夏休みを利用して、
          観音さまのことや地域の歴史・文化を楽しく学んでみませんか?