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| 雨森芳洲肖像 |
雨森芳洲肖像、1幅
江戸時代中期、画者不詳 重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」登録資料、芳洲会蔵
唐服をまとい、袖に手を入れ胸前で拱手(きょうしゅ)し、儒巾(じゅきん)をかぶった晩年の姿。朝鮮通信使画員の作と伝えられている。芳洲存命中、通信使は4度来日している(5・44・52・81歳)ことから、延享5年(1748)第10次通信使、芳洲81歳のものであろうか。
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| 橘窓茶話 下巻 |
橘窓茶話(きっそうさわ)下巻、1冊
原著・延享4年(1747)、雨森芳洲著・松浦桂川筆
重要文化財、芳洲会蔵
延享4年(1747)、芳洲80歳の時に完成した漢文随筆。芳洲の直筆本は現存しておらず、本書は外孫・松浦桂川(けいせん)[芳洲の次男・松浦龍岡(りゅうこう)の子]が書写したもの。下巻には、幼少期から学問に親しんできた芳洲が、9歳の時に作ったとされる漢詩も収められている。
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| たはれぐさ |
たはれぐさ、3冊
原著・享保20年(1735)、寛政元年(1789)刊、雨森芳洲著
長浜市指定文化財、芳洲会蔵
芳洲が68歳の時に完成した和文による随筆。第1条に「わが後なる人の、庭の訓えとも思えかしと、たく火に焼きもやらず、残し侍るなり」と、本書成立の動機は、子孫・子弟に対する遺教として執筆したことを表明している。跋文(ばつぶん)は同じ木下順庵(きのしたじゅんあん)(1621~98)門下の室鳩巣(むろきゅうそう)(1658~1734)による。古義堂文庫(天理大学図書館)には、芳洲が伊藤東涯(いとうとうがい)(1670~1736)に宛てた本書の校訂・批評を乞う書状が2通伝わっている。
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| 日課詩(「義如君江故事申上扣」のうち) |
日課詩(にっかし)、1冊(「義如君江故事申上扣」のうち)
元禄13年~15年(1700~1702)頃、雨森芳洲筆
重要文化財、芳洲会蔵
『日課詩』と題する漢詩草稿。「寄呈縁長老」と題するものが含まれ、対馬以酊庵(いていあん)第41代輪番・別宗祖縁(べっしゅうそえん)の在任期間である元禄13年~15年(1700~1702)頃、芳洲30歳代前半頃のものとみられる。若き芳洲が本務の傍ら、詩作を日課としていたことを示す資料として注目される。
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| 芳洲詠草 |
芳洲詠草(ほうしゅうえいそう)、22冊のうち
寛延元年(1748)~宝暦4年(1754)、雨森芳洲筆
重要文化財、芳洲会蔵
芳洲は晩年81歳の頃から和歌を学びはじめ、『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の千遍(せんべん)読みと和歌一万首の詠草を志した。千遍読みは、寛延元年(1748)12月晦日にはじめ、読むペースは次第に速くなり、翌年8月28日に達成した。また一万首の詠草は、寛延元年8月23日に開始し、同3年8月22日にはすでに1万首に達し、さらにその後も亡くなる前年・87歳の時まで精力的に詠み続け、その作は2万首を数える。老境においても向学心の絶えることない最晩年の芳洲の姿が垣間見える。芳洲は、漢詩と和歌は表現こそ違え、そこに「優劣はない」と考えていた。第12巻に「詩は漢語の精華なるものなり、歌は和語の精華なるものなり」と記している。
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