高月観音の里資料館
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特別陳列
 「
布施美術館名品展13―東アジアの資料群―



  期 間: 令和5年 3月15日(水)~5月15日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
開催趣旨
 布施コレクションの中から、名品を展示紹介する毎年恒例のシリーズ展で、13回目の開催。
長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎(ふせまきたろう)(1881-1970)が収集した富岡鉄斎(とみおかてっさい)(1836-1924)をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料など数多くの貴重なコレクションを収蔵する美術館です。
 初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。
 今回の特別陳列では所蔵品の中から、古代から中世までの東アジア(主に中国・朝鮮)に関する資料を公開します。我が国は、東アジア文化の終着点であり各時代の大陸文化を吸収し、独自の文化として発展してきました。唐時代の貴人の墓から出土した俑(よう)、高麗王朝期の経巻、敦煌(とんこう)出土の経巻など日本文化の原点となる優れた資料にスポットをあて、東アジアの文化や歴史と我が国との関係を考えます。
 本展を通じて布施コレクションの価値を再認識する契機にしていただければ幸いです。

展示内容
① 春秋戦国~北宋(紀元前300~1127)の美術工芸品
春秋戦国の青銅器、東晋の磚硯(せんけん)、唐の俑(よう)(人形のこと)の文官像・婦人像・騎馬像、武周(ぶしゅう)の敦煌(とんこう)出土経巻など、バラエティに富む古代中国の美術工芸品や仏教文化を紹介します。

② 明代(1368~1644)の美術工芸品と文字文化
明代の陶磁器や典籍類を紹介します。

③ 朝鮮の美術工芸品と文字文化
高麗時代(918~1356)の経巻、朝鮮時代(1392~1910)の伊羅保茶碗(いらぼちゃわん)や熊川大抹茶碗(こもがいだいまっちゃわん)や典籍などを紹介します。


本展の見どころ
① 春秋戦国時代の青銅器の祭器を初公開します。
② 唐代の俑8躯を初公開します。
③ 伝敦煌出土「金光明最勝王経」(則天武后時代の資料)を初公開します。



主 催/高月観音の里歴史民俗資料館
 力/一般財団法人 布施美術館

             
関連事業
■展示説明会
  
  日時令和5年3月26日(日) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
   
青銅器 祭器   青銅器内面に刻まれた巴蜀文字
 (1)青銅器 祭器 1基
   春秋戦国時代(紀元前300年ころ)
   高さ19.5㎝×径28.5㎝

 祭器とは祭祀に用いられ供物を入れる器物。青銅製品で、口縁部の外側に立体化した饕餮文(とうてつもん)、斜格子文を中位から下方部に施文し、斜格子文の中に流水文と乳状突起を配する。台座部には、獣面文が施文される。内面には、巴蜀(はしょく)文字という漢字の原型となる文字が四文字線刻されている。饕餮は中国古代神話に登場する悪獣で、渾敦(こんとん)、窮奇(きゅうき)、檮杌(とうごつ)とともに「四凶」とされる。饕餮には財を貪り、食物も貪るという意味がある。
 中国古代の王は、青銅器に悪獣を表現することで悪獣を支配し、神への祭祀を行ったと考えられる。
 
 
         
 (2)文官像  (3)武官像  (4)婦人像  (5)婦人像  (6)婦人像

     
(7)婦人騎馬像   (8)牛像 (9)牛像 
(2)~(9)俑 8躯 唐 7世紀~8世紀ころ

(2)文官像 高さ22.0㎝×幅6.9㎝
(3)武官像 高さ18.9㎝×幅6.1㎝
(4)婦人像 高さ29.9㎝×幅7.4㎝
(5)婦人像 高さ38.2㎝×幅12.5㎝
(6)婦人像 高さ36.5㎝×幅10.5㎝
(7)婦人騎馬像 高さ29.8㎝×幅30.1㎝
(8)牛像 高さ14.7㎝×幅21.8㎝
(9)牛像 高さ18.6㎝×幅24.2㎝

 俑は土製人形のこと。唐時代、俑は有力者の墳墓に納められた副葬品・祭祀用品として用いられた。死者の生前の生活を墓中に仮器をもって再現させようという、漢代以降の思想を形に表したものと考えられている。低温度で焼かれた土製の塑像で、表面には白色や赤色の顔料などで着色されたりした(加彩俑・かさいよう)。
 今回の展示品には、文官像(2)・武官像(3)・婦人像(4~6)・婦人騎馬像(7)・牛像(8.9)がある。文官像は、胸前で手を組み楕円形の孔(あな)が穿(うが)たれていることから、笏(しゃく)を執っていたと考えられる。婦人像は、両手が隠れる長袖に床へ裾がつく衣と特徴のある髷(まげ)を結っており、すらりとした姿で表現される。婦人騎馬像は、長袖の上衣とズボンのような下衣を着用して馬にまたがった女性で、右手を下に伸ばし、左手は胸前に上げていることが分かる。牛像は2体あり、いずれも装飾品を取り付けた姿で表現されている。
 
 金光明最勝王経
 (10)金光明最勝王経依空満願品第十
    (こんこうみょうさいしょうおうきょういくうまんがんぼんだいじゅう) 1巻 武周
     長安3年(702) 伝敦煌出土品
     縦28.0㎝×横341.4㎝

 金光明最勝王経は、仁王経・法華経とともに国家鎮護の三部経の一つ。
この経を聞いて信受するところには四天王など諸天善神の加護が得られると説く。

 唐の義浄(ぎじょう)(635-713)の訳、10巻31品。
 武周とは則天武后(そくてんぶこう)の政変により、唐から国号が周(古代王朝に周朝があるため、王朝名は武周と表現される)へ変わった時代のことをさす。巻末には「制作長安西明寺」「三蔵法師義浄奉」と記されている。
 
(11)緑釉(りょくゆう) 陶枕(とうちん)
    1基 明(15世紀)
    縦18.4㎝×横24.5㎝×高さ14.5㎝

 約500年前に造られた陶器製の枕。上部には刻花文(こっかもん)を大きく描き、全体には緑釉を施す。側面には、重ね焼きを示す円形の無釉の剥ぎ取り痕がみられる。底面は無釉で、黄橙色の陶質面が露出している。陶枕の上面は、やや中央に窪むが平坦に近く、後頭部を置くことは辛く感じられる。古代から中世にかけては側頭部を枕上に置き、横を向いて就寝することが一般的であったとされる
 
(12)熊川大抹茶碗 銘 東坡(とうば) 1口
    朝鮮(16世紀)
    高さ12.2㎝×径14.2㎝

 熊川(こもがい)茶碗とは、朝鮮で作られた高麗茶碗の一種。熊川茶碗は室町時代から江戸時代にかけての茶人たちから好まれた。腰が丸く、口縁が外反した独特の姿となり、胴部に膨らみを持ち、見込みに茶溜りと呼ばれる円形の窪みがある。熊川(イチョン)は、朝鮮半島東南部の慶尚南道(キョンサンナムド)にある地名である。本資料は、黄橙色の釉薬が全体にかかり、胴部に轆轤回転ナデによる溝が5本残る。底部はハ字状で低く安定する。
 
   
 東医宝鑑  東医宝鑑 人体解剖図
(13)東医宝鑑(とういほうかん) 25冊
    朝鮮 光海君6年(1613)刊
    縦34.5㎝×横21.0㎝

 豊臣秀吉による、文禄・慶長の役のさなかの1596年、朝鮮国王宣祖(ソンジョ)の命により許浚(ホジュン)(1546-1615)が編纂した医書で、当時の東洋医学の最高峰とされる。宋・元・明代の主要医学書や朝鮮で出版された医書等を引用し、全医学の統一をはかっている。その内容は、高く評価され、朝鮮のみならず日本・中国でも重版が続いた。我が国では、8代将軍吉宗が座右の書としていた。
 
 特別陳列
 「朝鮮通信使と長浜
  ~通信使来日を支えた人々~」



  期  間:令和4年 9月28日(水)~11月28日(月)
  休館日:火曜日・祝日の翌日(11月4日、24日)
  

開催趣旨
 豊臣秀吉による文禄・慶長の役によって日本と朝鮮との国交は断絶しますが、慶長12年(1607)、江戸幕府の命を受けた対馬藩の尽力により、国交が回復、途絶えていた朝鮮通信使の来日が再開されました。
 漢城(ハンソン)(現ソウル)を出発し、海路を経て京都へ上陸した通信使たちは、中山道から朝鮮人街道を通って美濃路へと進んだため、長浜へは訪れていません。しかし、大津や近江八幡、彦根などで通信使を迎えるにあたり、人足や諸税が湖北の村々にも課せられていたことが各村に残る資料からわかっています。
 また、湖北には、高月町雨森出身と伝わる対馬藩の儒学者・雨森芳洲や高月町井口出身で膳所藩に仕えた松井原泉、彦根藩士岡本半介など朝鮮通信使と交流のあった人物もいます。
 本展覧会では、華やかな国際交流の裏で朝鮮通信使の来日を支えた人々に焦点を当て、村に伝わる古文書や雨森芳洲関係資料などをとおして、朝鮮通信使と長浜の関わりを読み解きます。

展示資料数22点。


主 催:長浜市

本展の見どころ
  1. 地域で守られた長浜城主時代の羽柴秀吉の課役免除文書と、この文書がその後の歴史に与えた影響を解説。
  2. 重要文化財、ユネスコ「世界の記憶(旧記憶遺産)」(日韓共同提案)の登録史料を公開。
  3. 松井源泉、岡本半介など地域に埋もれた人物に光をあて、彼らと朝鮮通信使たちとの文化的交流(漢詩など)を示す史料を公開。 
  4. 湖北地域で、朝鮮通信使との関わりを示す課役(食材・献立・宿所)を示す史料から、江戸幕府の課役の厳しさを解説。
  5. 天保3年(1832)に計画され、天保の大飢饉などの理由で中止となった、幻の第13次朝鮮通信使について関連資料を公開。

 
 おもな展示資料
 
   
 ▲朝鮮人来朝御入用人馬賃請取状(左)  ▲大津宿御賄所下行渡鶏役銀請取状(右)
 左/朝鮮人来朝御入用人馬賃請取状
  1通 紙本墨書 明和元年(1764) 33.2×23.8㎝ 高月町柏原自治会蔵

 右/大津宿御賄所下行渡鶏役銀請取状
  1通 紙本墨書 明和元年(1764) 30.6×21.7㎝ 高月町柏原自治会蔵

 朝鮮通信使の直接の通行ルートから離れる湖北地方にも、通信使の来日に伴う負担金や出役が求められた。幕府領であった伊香郡柏原村(長浜市高月町柏原)には、大津宿における通信使の接偶にかかる費用(人馬賃・賄料)の負担が課せられたことがわかる史料。
 
 
 ▲羽柴秀吉判物 もりもと大夫宛
 羽柴秀吉判物 もりもと大夫宛
  1巻 紙本墨書 安土桃山時代 13.2×87.1㎝ 高月町森本自治会蔵

 伊香郡森本村(長浜市高月町森本)は朝鮮通信使来日に伴う彦根藩からの諸役の要請に対し、最後の通信使である第12次通信使のとき以外はこれを免除された。これはかつて湖北の地を支配した秀吉が森本村に発給した諸役免除の判物によるものである。
   
   
 ▲朝鮮通信使詩巻
 朝鮮通信使詩巻
  1巻 紙本墨書 寛延元年(1748)28.7×374.6㎝ 本館蔵

  高月町井口出身の松井原泉は伊藤東涯に儒学を学び、17歳のときに膳所藩に仕官。第10次通信使来日の際には、膳所城下において藩命により通信使接伴の任につき、朝鮮の4人の文人と詩文の唱和を行った。4人の文人とは、製述官朴敬行(パクキョンヘン)、正使書記李鳳煥(イポンファン)、副使書記柳逅(ユフ)、従事官書記李命啓(イミョンゲ)のことである。本資料にはそのとき唱和した詩文が収められている。
 
   李東郭七律
 正徳3年(1713)36.2×48.7㎝
 附雨森芳洲識語
 元文2年(1737) 40.4×48.9㎝ 1幅 紙本墨書
 芳洲会蔵 重要文化財
 ユネスコ「世界の記憶」登録

 上段は、李東郭(イトングワ)が正徳元年(1711)の第8次通信使製述官の任務を果たし、帰国後雨森芳洲に贈った七言律詩。
 下段は、その24年後、芳洲がかつて韓客(朝鮮王国から招かれた文人)より贈られた漢詩(上段)を見つけ、二男松浦龍岡に表具を命じて、知友を追慕しつつ認めた識語である。東郭の人となりと、国境を越えた親友(異邦之莫逆(いほうのばくぎゃく))として交わったことなどを述べている。本資料は重要文化財に指定され、ユネスコ「世界の記憶」にも登録された。

  
 
 ▲彦根藩岡本半介書「任絖謝詩並岡本半介唱酬詩」 
  彦根藩岡本半介書「任絖謝詩並岡本半介唱酬詩」
 1幅 紙本墨書 寛永13年(1636)頃 35.3×50.0㎝ 個人蔵 

  第4次通信使の正使・任絖(インクアン)が、彦根において作った漢詩を書したもの。江戸往復中、彦根で藩主から受けた厚遇に謝意を表している。もとは杯盤(はいばん)に書き記したという。一字下げで書かれている部分は、実際に接待に当たった彦根藩重臣・岡本半介宣就が任絖の詩に和して作った漢詩。
関連事業
■展示説明会
    
  時:令和4年
11日(土) 午後1時30分から
      所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 


 
特別陳列
 「東阿閉・乃伎多神社の平安仏」



  期間:令和4年 6月22日(水)~8月8日(月)
  

 
特別公開
 「山本・常楽寺の聖観音立像」



  期間:令和4年 6月29日(水)~7月18日(月・祝) 

開催趣旨
 長浜市高月町東阿閉(ひがしあつじ)・乃伎多神社(のぎたじんじゃ)は、式内「乃伎多神社」の論社の一つとされる古社です。かつて東阿閉のあたりは安曇郷(あづみごう)と称され、乃伎多神社はその鎮守として信仰を集めたといい、他に例のない「モロコ祭り」を伝えています。本殿と並んで建つ薬師堂には、平安時代に作られた薬師如来立像・聖観音立像・毘沙門天立像2躯の計4躯の仏像が伝わります。
 本展では、普段公開されていない乃伎多神社薬師堂の仏像4躯を特別展示します。また、6月29日(水)から7月18日(月・祝)まで、湖北町山本・常楽寺に伝わる聖観音立像(長浜市指定文化財)もあわせて特別公開します。
 本展を通じ、湖北地方の信仰文化の一端に触れていただければ幸いです。

主 催:高月観音の里歴史民俗資料館

見どころと資料概要
 乃伎多神社薬師堂の仏像4躯を特別展示!
 普段は公開されていない薬師堂内の薬師如来立像・聖観音立像・毘沙門天立像2躯の計4躯を特別展示します。

主な展示資料
◆特別陳列「東阿閉・乃伎多神社の平安仏」  
・薬師如来立像 1躯 平安時代後期 12世紀
・聖観音立像 1躯 平安時代後期 12世紀
・毘沙門天立像① 1躯 平安時代後期 12世紀
・毘沙門天立像② 1躯 平安時代後期 12世紀
    (以上、東阿閉自治会所蔵)
     
◆特別公開「山本・常楽寺の聖観音立像」  
△聖観音立像 1躯 平安時代後期 12世紀 常楽寺所蔵
  △…長浜市指定文化財

 
 ▲東阿閉・乃伎多神社薬師堂厨子内の様子
 
 おもな展示資料
 
薬師如来立像
(やくしにょらいりゅうぞう)
 木造・彫眼・古色 1躯 像高94.4㎝
 平安時代後期 12世紀 東阿閉自治会蔵

 左手に薬壺をのせ直立する通例の薬師如来立像。後補のぶ厚い古色仕上げのため、構造の詳細は不明であるが、内刳(うちぐ)りが施されている。
 なで肩で肉付けを抑えた厚みの無い体躯(たいく)や彫りの浅い衣文(えもん)をはじめ、総体に簡素で素朴な趣を示す。
   
聖観音立像
(しょうかんのんりゅうぞう)
 木造・彫眼・古色 1躯 像高108.0㎝
 平安時代後期 12世紀 東阿閉自治会蔵

  胸前で蓮華を執り直立する聖観音立像。頭体幹部の構造は不明であるが、本尊薬師像と同巧とみられる。薬師如来立像同様、総じて簡素な作風を示す。
 聖観音と伝えられているが、頭上に観音の標識である化仏(けぶつ)を配さず、髻頂(けいちょう)に仏面のみをのせる。現在の髻(もとどり)と持物(じもつ・蓮華)を含めた両手は後世に修理されたものであり、当初の尊名をうかがうことはできないが、垂髻(すいけい)の周囲に小面を配した十一面観音として造像され、後世に水瓶(すいびょう)を蓮華に持ち替え、聖観音として修理された可能性が高い。
   
薬師如来立像、聖観音立像ともに、彫眼、面幅が面長を上回るほどの丸顔で、体躯は量感を強調せず、側面観は薄い。また、動静も見せず、下半身は左右対称的で、腰・膝部が細く大腿部周辺が太い紡錘形(ぼうすいけい)にまとめられ、衣文も薄く穏やかに抑え、複雑に乱れない。これらの特徴は、平安時代末期12世紀後半の作風とみられる。
 
   毘沙門天立像①
 (びしゃもんてんりゅうぞう)
 木造・彫眼・古色 1躯 像高106.0㎝
 平安時代後期 12世紀 東阿閉自治会蔵

 頭上に螺髺(らけい)を結び、頭部を斜め左方へ向け、目を怒らせて閉口し、前方を凝視する。右手に宝塔をのせ、左手は振り上げて三叉戟(さんさげき)を執り、ほぼ直立して岩座上に立つ。
 構造は不明であるが、頭体幹部は一材からなるとみられ内刳りは施されていない。
   
    毘沙門天立像②
 木造・彫眼・古色 1躯 像高100.2㎝
 平安時代後期 12世紀 東阿閉自治会蔵

 頭上に兜を被り、目を怒らせて閉口し、前方を凝視する。右手は振り上げて三叉戟を執り、左手に宝塔をのせ、ほぼ直立して岩座上に立つ。
 構造は寄木造とみられ、内刳りが施されている。
 一時期、大きく破損したのであろうか、正面から見えるほとんどの部分は後世の修理によるものと考えられる。背面材に一部古い部材が残っているようで、当初は他の三躯と同じく平安期に造られたことがうかがえる。
 4躯各像の台座ウラ墨書銘によれば、その修理は江戸時代後期・文政8年(1825)であり、担当した仏師は、東柳野村(長浜市高月町東柳野)の河口藤三郎という人物であることが判明する。藤三郎は、当薬師堂のほか、高月町尾山釈迦堂の仏像修理にもかかわったことがわかっている。
 

●東京長浜観音堂から里帰りした聖観音立像


 観音像とともにある暮らしや、文化の保存伝承への支援者を得るという目的のもと開設された「東京長浜観音堂」において、5月12日(木)から6月12日(日)まで展示されていた湖北町山本・常楽寺の聖観音立像を特別公開します。

 
     聖観音立像
 木造・彫眼・古色 1躯 像高101.3㎝
 平安時代後期 12世紀
 長浜市指定文化財 常楽寺蔵

 山本山の中腹に建つ常楽寺に伝わる像。頭上に垂髻を結び、条帛(じょうはく)・腰裳(こしも)を着す。左手を胸前に上げ、両手で蓮茎(れんけい)を執る。天衣(てんね)をかけ、両足をそろえてほぼ直立する。像の大半をヒノキの一材から彫出し、内刳りは施さない。条帛・天衣・裳ともに輪郭のみを表し、衣文線をいっさい表現しない点に特色がある。
   
関連事業
■展示説明会
    
  時:令和4年7月16日(土) 午後1時30分から
      所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
 
 


 
特別陳列 布施美術館名品展12
 「
一医師が集めた江戸文化の至宝~近世の文人たち~



  期 間: 令和4年3月16日(水)-5月16日(月)
  ◆会期中休館日:火曜日・祝日の翌日
 
開催趣旨
 長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎(ふせまきたろう)(1881-1970)が収集した富岡鉄斎(とみおかてっさい)(1836-1924)をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料など数多くの貴重なコレクションを収蔵します。
布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。
 今回は、所蔵品の中から、江戸文化を昇華させた文人たちの資料に焦点をあてます。文人たちは、文芸・美術・学問など様々なジャンルで活躍し、江戸文化を華やかに彩りました。
本展を通じて、布施コレクションの価値を知っていただくとともに、布施巻太郎の心にふれ、あわせて郷土文化を再発見する契機にしていただければ幸いです。

展示内容
① 江戸前期の文人たち
名陶工の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、『養生訓(ようじょうくん)』で知られる貝原益軒(かいばらえきけん)、有栖川宮幸人親王の書画を展示します。桃山時代から江戸時代という、変化のある時代を生きた江戸前期の文人たちを紹介します。

② 江戸中後期の文人たち
屈指の名君として名高い上杉鷹山(ようざん)の師・細井平洲(へいしゅう)、寛政異学(かんせいいがく)の禁で弾圧を受けた亀田鵬斎(ほうさい)、京都の書家・亀田窮楽(きゅうらく)、文人画に秀でた中林竹洞(ちくどう)・竹渓(ちくけい)親子、京都四条派の絵師・松村景文(けいぶん)、大名家に生まれながら絵師となった酒井抱一(ほういつ)、滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者十返舎一九(じっぺんしゃいっく)らの作品を紹介します。

③ 幕末の文人たち
儒者広瀬淡窓(たんそう)・旭荘(きょくそう)親子、思想家・頼山陽(らいさんよう)、蘭学者・渡辺崋山、富岡鉄斎(てっさい)に大きな影響を与えた尼僧・大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)らの作品を紹介します。

④ 幕末の名陶工・青木木米
 青木木米(もくべい)の陶磁器類を展示します。木米は、仁阿弥(にんなみ)道八と永楽保全に並ぶ「京焼の幕末三名人」と称えられる人物で、書画にも通じていました。

主 催/高月観音の里歴史民俗資料館
 力/一般財団法人 布施美術館


展示品/26件27点
             
関連事業
■展示説明会
  
  日時:令和4年4月23日(土) 午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室
       
 おもな展示資料
 
(1)伊勢物語 1冊
 縦25.0㎝ 横17.8㎝
 17世紀頃
 本阿弥光悦書写

 文人にとって、古典を書写することは嗜みであり、平安時代の作品が好まれていた。
 『伊勢物語』(作者不詳)は平安時代の成立とされ、在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)を思わせる貴族が主人公となる和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。「むかし男ありけり」の冒頭句で始まる有名な文学作品として知られる。
 本阿弥光悦(1558-1637)は流麗な定家流で書き上げており、室町~安土桃山~江戸時代の文化活動をリードし、堂々と走り抜けた人物の姿が垣間見られる。
 本阿弥光悦は、室町~江戸時代の芸術家。京都三長者(後藤・茶屋・角倉(すみのくら))に比肩する富豪で、代々刀剣の鑑定(めきき)、磨礪(とぎ)、浄拭(ぬぐい)を家職とした本阿弥家に生まれる。角倉素庵(そあん)(1571-1632)に協力して出版した嵯峨本の『方丈記』、『徒然草』や俵屋宗達(生没年不詳)の下絵に揮毫した歌巻・色紙、さらに蒔絵・茶碗などは、当代の日本文化の花と讃えられる。元和元年(1601)、徳川家康から洛北鷹峯(たかがみね)(現京都市北区)の地所を与えられ、家職は養嗣子光瑳(こうさ)に譲り、同地へ移住し芸術の里を築いて、創作(主に作陶)・雅遊の晩年を送った。
 近衛信尹(のぶただ)(1565-1614)、松花堂昭乗(しょうじょう)(1582?84?-1639)とともに「寛永の三筆」と讃えられ、亡くなった後には「天下の重宝」と惜しまれた。代表作に「舟橋蒔絵硯箱」(国宝)、白釉陶器碗の「不二山」(国宝)、赤楽茶碗「赤楽の雪峰」(重文)がある。光悦は、林羅山、板倉重宗、茶屋四郎次郎(しろじろう)、尾形宗柏(そうはく)、古田織部、前田利家、楽常慶(らくじょうけい)らとの親交があった。
   
(2)秋景山水図 1幅
 縦117.4㎝ 幅32.4㎝
 18世紀頃
 亀田鵬斎筆 (初公開)

 秋の日の山河の様子を描いたもの。山上には楼閣が見え、河川には小船が走っている。川辺の木々や遠方の山々を、墨の濃淡を使い表現し、緩やかな筆のタッチであることが分かる。
 亀田鵬斎(1752-1826)は、陽明学者として知られる。江戸神田(現東京都千代田区)の出身。名は長興(ながおき)、字は国南、公龍、通称は文左衛門、号は鵬斎、善身堂。井上金峨に学び、江戸学界の「五鬼の一人」と呼ばれ、下谷金杉(現東京都台東区)に私塾を開き経学や書を教えた。しかし「寛政異学の禁」(朱子学以外の教授を禁止)で弾圧を受け、私塾は閉鎖となった。
 その後は酒浸りの生活となり、貧困するも庶民たちから「金杉の酔先生」と親しまれた。貧困生活から脱出するため、友人の酒井抱一や谷文晁(ぶんちょう)(1763-1840)をたより、彼らは「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。各地を旅し、文人や粋人らと交流した。そして風格ある特異な詩と書で評判となり、鵬斎は豪放磊落な性質で、学問は見識が高く、天明3年(1783)の浅間山大噴火では難民救済のため、すべての蔵書を売り払った。著書に『善身堂一家言』等がある。
   
(3)芭蕉像図 1幅
 縦28.0㎝ 横124.0㎝
 19世紀頃
 酒井抱一筆 (初公開)

 頭巾と外套をつけて旅衣装をまとい、杖を倒して丸傘を持って座る、まさに奥の細道の旅路を想起させる芭蕉の姿を描く。賛は、貞享3年(1686)『蛙合(かわずあわせ)』に収録された代表的な芭蕉の句「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」を「ふるいけや 其後 とひこむ かわつなし」とパロディー化したもので、儒学者・亀田鵬斎による草書。この句は、江戸時代から良く知られ、井原西鶴門下の水田西吟(さいぎん)(?-1709)も、同年に発刊した『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」と紹介している。
 酒井抱一(1761-1828)は、姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の第4子として江戸で生まれた。若くして各種の武芸を修め、元服後は俳諧・和歌・能・茶など文人墨客(ぼっきゃく)との交わりを深め、武家の身分ながら町人的生活と性格を形成した。寛政2年(1790)、西本願寺文如(もんにょ)のもとで出家し、浅草千束に移住して抱一と号した。落髪隠居後は、本格的な文人生活に入り、絵画を専職とした。長崎派や浮世絵を学んだが、のちに光琳画の復活者たる画技を確立し、尾形光琳と同じく大画面の製作を行った。
   
(4)打拳図(うちこぶしず) 1幅
 縦35.0㎝ 横53.5㎝
 19世紀頃
 十返舎一九筆 (初公開)

 扇面に描かれたものを軸装化している。2人の男が会話している様子を描き、1人は大きく口をあけている。これは、一九の作品によく見られる表現で、開いた口が塞がらないという意味。賛も一九自身によるもので、人生訓を説いている。洒落のきいた江戸時代の1コマ漫画のようである。一九は、戯作だけでなく滑稽本の挿絵や画、狂歌なども多数手掛けており、その才能の一端をうかがい知ることができる。
 十返舎一九(1765-1831)は戯作者として知られ、本名は重田貞一、幼名市九。十返舎とは香道の黄熟香(おうじゅくこう)の十返しにちなむ。駿河府中(現静岡県)同心の子とも伝えられる。大坂町奉行の配下として大坂(現大阪府)へ赴いたが、後に武家奉公を辞して江戸に出、山東京伝の知遇を得て戯作家となった。代表作には『膝栗毛(東海道中膝栗毛)』『続膝栗毛』などがある。
   
   (5)蝶紅葉図 2幅
 縦125.0㎝ 横24.5㎝(蝶図)
 縦124.0㎝ 横24.0㎝(紅葉図)
 19世紀頃
 大田垣蓮月筆 (初公開)

 二幅の作品で、秋の日に散る紅葉の葉と、その上をつがいで緩やかに飛ぶシジミチョウを描いたもの。赤い紅葉と黄色い蝶を斜め方向に描いて、空間の高さと風で舞い落ちる紅葉の葉を表現する。
大田垣蓮月(1791-1875)は、伊賀上野藤堂家分家の娘と伝える。名は誠(のぶ)。生後直ちに京都の大田垣伴左衛門光古(てるひさ)(知恩院門跡)の養女となった。丹波亀山城(現京都府亀岡市)に勤仕して、武芸に長じ、六人部是香(むとべよしか)(1798-1864)、上田秋成(1734-1809)、千種有功(ありこと)(1796-1854)に師事し国学や詩歌を学んだ。
 不幸にして家族を失い、出家して蓮月と名乗った。養父の死後には知恩院を去り、岡崎村(現京都市左京区)に移った。岡崎では和歌諷詠(わかふうえい)を事とし、陶芸により生計をたて、自作の陶器に自詠の和歌を釘彫りで施し「蓮月焼」と呼ばれ、高雅な趣向から人気を博し、贋作が出回るほどであった。
 幼少期の富岡鉄斎(1836-1924)は侍童(じどう)(貴人の側に仕えるわらべ)として蓮月と暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。  
代表作に『海人の刈藻(かるも)』『蓮月式部二女歌集』『蓮月集』がある。
   
(6)荷花世界図(かかせかいず) 1幅
 縦127.0㎝ 横25.2㎝
 19世紀頃
 渡辺崋山筆

 水墨画で力強く蓮の花が描かれ、周りには蓮の葉が重なり合って池に浮かんでいる。上方には茎に乗り羽を休める蝶の姿を配す。また、岸側からは茎や葉が池に向かってのびていることも観察できる。池の水面は、墨を使わず空白の白で表現している。まさに、初夏の自然風景を静かに表現したとみられる。墨の濃淡を活かした表現が味わい深い。
 渡辺崋山(1793-1841)は、文人画家で蘭学者。三河渥美郡の田原藩家臣の子として生まれた。小藩の上、父が病身のため、極貧生活を送ったという。家計を助けるために画を学び、儒家たちから漢学も学んだ。写実的な洋画の画法を学び、洋画への傾倒から蘭学を学ぶ素地を作った。崋山は、天保3年(1832)に年寄役末席(家老職)となり、藩政改革にも尽力。崋山は、開国論者であり高野長英ら蘭学者を招いて蘭書の翻訳を依頼し、新知識の吸収につとめ、海外事情を研究。天保10年(1839)には『外国事情書』をまとめ「蘭学にて大施主」という世評を得た。彼の学識に集まる知識人は、幕臣と儒者であったが、蛮社の獄で投獄され在地蟄居を命ぜられた。蟄居中に画業に専念したが、門人たちが崋山の画を密かに三河、遠州で売りさばいていたことが、老中水野忠邦に探知されたと誤信し、主君に迷惑がおよぶことを恐れ、自刃した。
   
(7)擬南蛮式 1口
 縦7.3㎝ 横4.2㎝
 19世紀初頃
 青木木米作 (初公開)

 茶銚とは、煎茶道で湯を沸かす道具のこと。涼炉(りょうろ)の上に乗せ、炭火で熱して使用する。擬南蛮式とは、南蛮の陶器に似せた作品であり、南蛮とは現在の東南アジアのタイ北部・カンボジアから中国広東省の地域を意味する。この地域では、粗雑な素焼陶器を日常雑器として用いており、室町時代から茶器として我が国に輸入され、茶人たちに珍重された。この作品は、轆轤(ろくろ)回転撫でにより、仕上げられているためシャープさが見られる。また、南蛮の素焼き陶器に似せるため、低温度の焼成を行っている。
 青木木米(1767-1833)は江戸時代を代表する陶工・文人画家である。京都に生まれ八十八(やそはち)と称し、この名をとって木米と名乗る。木米という号の他、古器観、また中年より耳を悪くしたことから聾米(ろうべい)とも名乗っている。
 絵画制作にもその才能を発揮し、京都・宇治の風景を俯瞰的に鮮やかに描き出す≪兎道朝暾図(うじどうちょうとんず)≫(重文)をはじめとする作品を残している。天保4年(1833)京都にて没するが、木米の墓碑には「識字陶工木米之墓」とある。永楽保全、仁阿弥道八らとともに、「京焼の幕末三名人」と称された。木米はすぐれた陶工でもあったが、すぐれた知識人・文人でもあった。