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2.位記 |
2.位記
大正13年(1924)2月11日 2通
①位記 22.8cm×31.0cm
②位記添書 23.4cm×31.4cm 芳洲会蔵
没後170年を経て芳洲に「従四位」が贈られた。
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3.雨森芳洲肖像画 |
3.雨森芳洲肖像画
江戸時代中期 紙本著色 1幅 74.6cm×42.9cm
重要文化財・ユネスコ「世界の記憶」登録資料 芳洲会蔵
唐服を着て拱手し儒巾をかぶる晩年の姿で、朝鮮通信使画員の作と伝える。延享5年(1748)第10次通信使芳洲81歳時のものか。 |
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4.芳洲会設立趣意書 |
4.芳洲会設立趣意書
大正13年(1924)3月 1枚 芳洲会蔵
大正13年2月の「従四位」贈位を受け、翌3月、北近江の地に雨森芳洲の顕彰会「芳洲会」が設立された。事業としては、芳洲書院の設立(書庫と記念館の建設等)、講演会の開催などが計画された。
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5. 芳洲会「再興」趣意書 |
5. 芳洲会「再興」趣意書
昭和60年(1985)2月 1枚 芳洲会蔵
戦後、日本の思想も教育も大きく変わり、芳洲会の活動も長く沈滞化していた。昭和50年代に入り、国際化の風潮の中、芳洲の存在が注目されはじめた。昭和58年の芳洲文庫資料の高月町指定文化財指定、翌59年の雨森芳洲庵開館を機に、芳洲会の再興の動きが盛り上がり、現在につながっている。 |
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②芳洲書院・芳洲庵の整備と訪れた人々
芳洲の生家跡に芳洲書院が開かれ、以後、井上巽軒(そんけん)(哲次郎)、内藤湖南(こなん)(虎次郎)、巖谷(いわや)小波(さざなみ)(季雄(すえお))、上田正明、司馬遼太郎らが訪れ、芳洲を高く評価した。また敷地内に書庫が建設され、子孫から寄贈を受けた関係資料が保管されてきた。
芳洲書院の建物は、一時期「芳洲保育園」として利用され、その後建て替えられ、昭和59年(1984)秋に「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」が開館し、資料展示と交流の場として活用されている。 |
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6.書「高山仰止景行行止」 |
6.書「高山仰止景行行止」
昭和7年(1932) 1幅
紙本墨書 1幅 131.5cm×34.0cm 内藤湖南書 芳洲会蔵
東洋学者内藤湖南(こなん)(1866~1934)、67歳の書。「高山仰止、景行行止」とは、『詩経』の一節。高山は仰ぐもの、景行は人の行くところ。つまり、誰にでも尊敬されるもののたとえ。「敬書」「後学」の文字から、湖南が芳洲の思想を高く評価していたことがわかる。
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③雨森芳洲の再評価
雨森芳洲は大正時代、郷民教育の象徴として事績調査が行われ、同13年(1924)、「文教に貢献した功績」により従四位が贈られた。戦前には、「公のみ私を忘れ、国のみ家を忘る」の言葉が軍国主義的に解釈・利用されるなどして、戦後は埋もれた存在となっていた。
こうした中、昭和50年代に入り、「世界の中の日本」や「朝鮮通信使」が意識されはじめ、芳洲の存在が再び輝きだした。昭和58年の芳洲文庫資料の高月町指定文化財指定、翌59年の雨森芳洲庵開館。また平成2年(1990)盧泰愚(ノテウ)大統領のスピーチにより日韓善隣友好のシンボルとして芳洲の名は全国に知れ渡った。平成6年には雨森芳洲関係資料は重要文化財に指定され、同29年には「朝鮮通信使に関する記録」の一部として、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。長浜市では、高月町時代を含め、官民を挙げて雨森芳洲の顕彰・啓発・普及に取り組んでいる。 |
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7. 芳洲会会報「橘窓」 |
7. 芳洲会会報「橘窓」
昭和61年(1986)~
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8.「雨森芳洲関係資料」調査報告書 |
8.「雨森芳洲関係資料」調査報告書
平成6年(1994)、滋賀県教育委員会文化財保護課編
平成3~5年度、県教委によって雨森芳洲関係資料の詳細調査が行われ、6年6月、同資料は重要文化財に指定された。
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