高月観音の里資料館
home ご利用案内 展示紹介 イベント情報 関連リンク お問合せ
 

 
特別陳列
 「布施美術館名品展8 仏教美術の魅力」



                   期間: 平成30(2018)年3月7日(水)-5月13日(日)

 展示説明会: 平成30(2018)年 3月25日(日)午前10時から  
4月21日(土)午後1時30分から  
 開催趣旨
 長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎(ふせまきたろう・1881-1970)が収集した富岡鉄斎(とみおかてっさい・1836-1924)をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料といった数多くの優れたコレクション約1,500点を収蔵する美術館です。初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に残したい、広く社会教育に活用したい」という美術館の創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年1回、布施美術館の所蔵資料を特別公開しています。
 今年は、布施コレクションの特色の1つである仏教関係資料の中から、奈良時代から平安時代にかけて書写された貴重な古経典をはじめ、臨済宗中興の祖と称され、存在感抜群の達磨絵でもお馴染みの白隠慧鶴(はくいんえかく・1685-1768)や、「とんちの一休さん」として有名な一休宗純(いっきゅうそうじゅん・1394-1481)の禅画や墨蹟を紹介します。また、布施巻太郎が学生時代に参禅したこともある、京都東山建仁寺の黙雷宗淵(もくらいそうえん・1854-1930)の作品なども紹介します。この機会に、布施美術館が所蔵する仏教関係の名品の数々をご覧いただければ幸いです。

■主催:高月観音の里歴史民俗資料館
■協力:一般財団法人布施美術館
             
       
 おもな展示資料
 
『仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)』
巻41(天平十二年五月一日光明皇后願経)
天平12年(740) 巻子装 1巻 26.4×722.6cm
滋賀県指定文化財

 『仏本行集経』は、過去仏や釈迦族の系譜・釈迦の誕生から初転法輪(しょてんぽうりん)まで、釈迦の伝教教化に関連して主な仏弟子の伝記などを集大成したもので、60巻からなる。
 本経は、天平12年(740)5月1日に発願されたもので、『五月一日経(天平十二年五月一日光明皇后願経)』と称される。光明皇后(聖武天皇の后)が、父・藤原不比等(ふじわらのふひと)、母・橘三千代(たちばなのみちよ)の追善供養と、聖武天皇の福寿・臣下の忠節を願い、皇后宮職の写経所で書写させたものである。光明皇后は、聖武天皇とともに仏教の篤信者で、悲田・施薬両院を設け、東大寺大仏・国分寺・国分尼寺の造立にも深いつながりを持ったことでもよく知られている。天平12年には、約3,500巻の書写を終えていたようで、その後東大寺写経所へ移り、継続書写が行われ、最終的には約7,000巻を数えたという。唐写経を学んだ秀麗な楷書で書写され、奈良朝写経中の最高峰とされる。なお、『五月一日経』の多くは正倉院聖語蔵(しょうごぞう)に伝存している。
  
   
『大般涅槃経集解(だいはつねはんぎょうしゅうげ)』巻第32
奈良時代 巻子装 1巻 27.7×640.5p
滋賀県指定文化財

 『大般涅槃経集解』は、釈迦の晩年、王舎城から入滅の地クシナガラにいたる道程とその事跡・説法、入滅・荼毘・分骨までを記した『大般涅槃経』に関する現存最古の註釈書。『大般涅槃経』(南本)に対する諸家の註釈を収録したもので、71巻からなる。
 本巻は、巻頭の首題のあたりを欠くところは惜しまれるが、唐経を思わせる堂々とした書風に注目され、奈良時代中期の代表的な遺品として貴重である。
   
『大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみたきょう)』巻第191(薬師寺経)
奈良時代 巻子装 1巻 27.5×964.0p
滋賀県指定文化財


 『大般若経』は、一切経の中にあって最も大部の600巻からなる。般若部に属する諸経典を集大成したもので、諸種の般若経典のほとんどすべてを網羅している。
 本巻は、巻子装で、首題のあたりに「薬師寺印」の朱円印2、紙背3ヶ所に「薬師寺金堂」の黒印を押しており、奈良薬師寺に伝来した世にいう「薬師寺経」の僚巻である。肉太で大ぶりに書写する書風から、奈良時代後期の写経生の手になると考えられ、表紙や装飾された軸首も当初のまま残され、奈良写経の表具の様式・技術を知るうえでも貴重な作例である。
 
   
 『大智度論(だいちどろん)』巻第61(針間国知識経)
天平6年(734) 折本装 1帖 23.9×1112.0cm
滋賀県指定文化財


 『大智度論』は、『摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)(大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)』の註釈書で、全100巻からなる。竜樹(りゅうじゅ)菩薩の著作と伝え、後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳。般若・空を説き、諸法実相を明らかにする論であるが、論中に様々な経論からの引用を含み、一種の仏教百科の趣を有する。
 この写経は、天平6年(734)、播磨国賀茂郡既多寺(きたでら)において書写されたもので、官立の写経所の写経とは異なるが、奈良時代における地方知識経として貴重である。本写経の中には、白点と朱校訂がある。白点は、天安2年(858)頃の移点とみられ、平安時代国語漢字音の重要な資料である。ちなみに、石山寺の僚巻の白点から、山階寺すなわち奈良興福寺にあったことが知られている。なお、石山寺には、石山寺一切経を整備した念西、朗澄の頃、平安時代末期に移されたものとみられる。もともとは巻子装であったが、天明7年(1787)頃、石山寺一切経補修に際し、折本に改装されたものである。他に、石山寺・唐招提寺・京都国立博物館等に分蔵されている
           
 『十誦律(じゅうじゅりつ)巻』第51(石山寺一切経)
神護景雲2年(768) 巻子装 1巻
 26.7×1542.8p
滋賀県指定文化財

 後秦の弗若多羅(ふにゃたら)と鳩摩羅什(くまらじゅう)の共訳。全体が十誦(10章)に分けられているので「十誦律」という。小乗仏典の1つで、律としては最も完備したものといわれ、全61巻からなる。中国では、翻訳当初はよく講究されたが、四分律の研究が盛んになるにつれて衰えた。
 この写本は、神護景雲2年(768)5月13日、称徳天皇が聖武天皇の供養のために発願書写させた一切経のうちの一巻である。別名「神護景雲経」とも称され、聖武天皇の勅旨一切経(天平6年:734年)と対比されるものである。正倉院聖語蔵には742巻が伝わっているが、市井に流出し諸家に伝わるものも少なくない。
 本経は、巻首に「石山寺一切経」の無廓黒印を押しているところから、もとは石山寺に伝来したことがわかる。ゆったりとした肉太の書風に特徴があり、比較的保存も良く、奈良写経の代表的な遺品として貴重である。なお、巻末識語の部分は、鎌倉時代に補ったもののようで、僚巻の巻第52を臨模(りんも)したものと考えられる。
   
『金剛頂瑜千手千眼念誦儀軌(こんごうちょうゆせんじゅせんげんねんじゅぎき)』(中尊寺経)
平安時代 紺紙金銀交書 巻子装 1巻
25.6×1114.8p

 正しくは、「金剛頂瑜伽千手千眼観自在菩薩修行儀軌経(こんごうちょうゆがせんじゅせんげんかんじざいぼさつしゅぎょうぎききょう)」という。千手観音の念誦法を説く密教経典。訳者は不空(ふくう)。日本へは真言宗開祖の空海、天台の円仁(えんにん)・円珍(えんちん)らが請来した。
 紺色に染めた紙に、金字と銀字で一行おきに交互に書写する、いわゆる金銀交書経である。交書経としては、比叡山延暦寺の金銀交書法華経(重要文化財)や本経の中尊寺経など、わずかに残るだけで貴重なものである。
 中尊寺(岩手県平泉町)は奥州藤原氏の寺で、平安時代の長治2年(1105)堀河天皇の勅命により、21年の歳月をかけて藤原清衡(きよひら)が再興し、その後基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)も護持に尽力した。
 この経典は、清衡夫妻が発願し、中尊寺に奉納した一切経(中尊寺経)の一巻で、「清衡経」とも称される。表紙は金泥で書かれている。見返しには、中央に霊鷲山の釈迦如来説法図を描き、上段には銀泥で霞引きし、下段には経意絵をあらわす。落ち着いた紺紙に、今なお金字と銀字が燦然と輝いている。
   
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(1394-1481)

 室町時代の臨済宗の僧。「とんちの一休さん」として古今を通じ広く民衆から慕われ、わが国歴代僧侶の中で知名度は群を抜いている。
 一休はみずからを「狂雲子(きょううんし)」と号したように、その行動から奇行の人として知られている。戒律で禁じられている肉食・女犯、異様な風体での往来、風刺などである。これらは当寺の仏教(禅)の偽善・形式化と腐敗堕落に対する批判精神によるものとされるが、その豊かな人間味から、江戸時代になって一休に仮託した数々の「とんち話」を生む素因ともなった。また、後小松天皇の落胤と伝えるが、その確証はない。
 文明6年(1474)には、京都大徳寺第47世をつぎ、応仁の乱で荒廃した伽藍を整備したという。
   
  心随万境転云々
室町時代 紙本墨書 一休宗純筆 1幅
85.5×24.6cm

 この墨蹟の一行目には、「心は万境に随って転じ、転じる処実に能く幽なり」とあり、人の心というものは、周囲で起こる物事によって、惑わされ変わりやすいものである。そうした変わりゆくその時その時に、実に奥深く計りしれないものがあるということ。二行目には、「性を得、流れに随えば、喜びも無く、亦憂いも無し」とあり、自分自身の心の本性を見て、その流れに随えば、心自体には喜びも憂いも無いということである。
 この一休の墨蹟は、運筆の緩急を明瞭に示す力のみなぎったもので、その激しい性格が見る者によく伝わってくる。なお、これを収める箱は二重箱で、内箱の箱書きは巻太郎と親交の厚かった、京都建仁寺管長黙雷宗淵(もくらいそうえん)が書いている。
          
【白文】
心随万境転 転処実能幽 性得流随 無喜亦無憂
   
白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685-1768)

 臨済宗中興の祖と称される江戸時代の臨済宗の僧。諡号は神機独妙禅師(じんきどくみょうぜんじ)・正宗国師(しょうじゅうこくし)。駿河国(静岡県)の出身で、15歳で地元松蔭寺の単嶺祖伝(たんれいそでん)のもとで出家、各地を歴参し、享保3年(1718)に京都妙心寺首座となる。のちに松蔭寺に戻り、生涯僧侶と民衆に禅を説き、名利を望まず権力者には近づかなかった。漢詩文・和語法話など多くの著書を残し、書画にも優れたものが多く、白隠自身の禅風を象徴的に表現する独特な作品を残している。
   
  暫時不在如同死人
(ざんじもあらざればしにんににょどうす)
江戸時代・18世紀 紙本墨書 白隠慧鶴筆 1幅
130.2×55.6p

 この墨蹟は、「暫時も在らざれば、死人に如同す」と読み、今生きている時間のうち一瞬でも本心がお留守になるならば、それはもう死人と同じである、という意味である。
 この墨蹟も含め、白隠の書は決して上手だとは言えないが、その禅風を如実に物語る峻厳なものを現している。また、その字配りや書体には頓着しない自由奔放な書風から、愚直で何事にもとらわれない彼の温かい生き様も見て取れる。
   
  南無地獄大菩薩(なむじごくだいぼさつ)
江戸時代・18世紀 紙本墨書 白隠慧鶴筆 1幅
139.8×29.8p

 白隠といえば地獄といわれる。なぜなら白隠は、幼少のころに地獄の恐怖を強く植え付けられ、それが仏門に入った最大の理由だからである。唯識観によれば、そもそも地獄と極楽は同じもので、表裏一体のものであるという。たとえば地獄の主神は閻魔大王であり、その閻魔大王の本地は日本では地蔵菩薩に比定される。つまり閻魔大王は地蔵菩薩の化身であるから、地獄菩薩は地蔵菩薩ともいうのである。
 この墨蹟は、白隠自身が畏れた地獄に帰依し拝めということを表しているわけではない。地獄は、単に閻魔大王が生前の罪を裁くというだけではなく、そのまま救済の手段にもなっているのである。そのことに気付き、これに帰依したてまつるということである。
   
  達磨像(だるまぞう)(草坐達磨・そうざだるま)
江戸時代・18世紀 紙本墨画 白隠慧鶴筆 1幅
115.6×26.8p

 達磨(?-530)は、禅宗の初祖として知られる人物である。宋代の禅宗史書によると、南インド香至国(こうしこく)の王子で、悟りの真実を伝えるため、南海経由で梁に来て武帝に迎えられた。しかし武帝にはその教えが理解できなかったため、洛陽東方の嵩山(すうざん)の少林寺で独り面壁(めんぺき)して坐禅し、のちに2祖となる慧可(えか)を指導し、禅の教えを伝えたという。面壁九年の故事から、江戸中期以後、坐禅姿の達摩をかたどった人形が、七転び八起きの諺とともに、縁起物として全国的に広まった。
 本作は、達磨が葉を敷物にして夕涼みをしている姿が描かれている。白隠はこの絵に「よしあしの葉をひつ布ひて夕涼み」と賛を書き入れられている。蘆(芦・葦)は、「あし」とも「よし」とも読むが、「あし」は「悪し」に通ずるので、「善し=よし」という別名を設けただけで、よしもあしも結局は同じものなのである。つまりこれには、是非、善悪など二元対立の分別を尻の下に敷いて超脱するという意味が込められている。世の中の善悪などは必ずしも普遍の真理ではなく、立場や状況によって変化する曖昧なものである。それを超脱することができなければ、この達磨のようにのんびり夕涼みをすることもできない、ということであろう。
   
  大燈国師像(だいとうこくしぞう)(乞食大燈)
江戸時代・18世紀 紙本墨画 白隠慧鶴筆 1幅
108.3×26.7p

 大燈国師は、大徳寺を開山した臨済宗の僧 宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(1282-1337)の諡号である。その門下から徹翁義亨(てっとうぎこう)や妙心寺開祖の関山慧玄(かんざんえげん)を輩出し、後にこの系統が日本の臨済宗の本流となった。また、大燈国師の墨蹟は、中国の墨蹟にも匹敵する雄渾な書で、日本の墨蹟の中で最も尊重されている。
 本作には、乞食大燈と呼ばれる大燈国師が描かれ、「瓜を手なしにひきめさふなら なるほど足なしで参り申べひ」の賛が書き入れられている。
 これは、大燈国師が京都五条の橋の下で乞食をしていたとき、好物の瓜で釣り出されたという故事を題材にしている。後醍醐天皇が大燈国師を召し出そうと派遣した官人が、五条の橋の下に大燈国師の好物である瓜をならべ、「足なしで来る者には与えよう」と言ったところ、「手なしで渡せ」と答えたため、その問答から大燈国師であることがばれてしまったという。
   
■黙雷宗淵(もくらいそうえん)(1854-1930)

 明治から昭和初期の臨済宗の僧。長崎県壱岐生まれ。俗姓は竹田、別名に左辺亭。15歳で福岡へ渡り、儒学者亀井南冥や近藤木軒に学び、のち上洛し、妙心寺の越渓守謙(えっけいしゅけん)に師事する。明治20年(1887)に建仁寺派管長石窓紹球(せきそうじょうきゅう)の後嗣となり、建仁寺禅堂の再建に当たる。さらに翌年には、福岡梅林寺の東海玄達(とうかいげんたつ)の印可を受け、建仁寺に僧堂を開創する。明治25年(1892)に建仁寺派管長となり、寺勢の振興と禅学興隆に努めた。約40年にわたる管長職の間に多くの弟子が教えを受け、中には伊藤博文をはじめ、政治家や芸術家などさまざまな分野の著名な人物も含まれている。黙雷の墨蹟は、隷書体(れいしょたい)のものが数多く、管長を務めた京都建仁寺の三門に掲げられた「望闕樓(ぼうけつろう)」の扁額も手掛けている。
   
    布施巻太郎と黙雷宗淵

 布施巻太郎は、布施孫一郎氏の長男として高月町唐川(長浜市高月町唐川)に生まれる。長じて京都帝国大学医科(現京都大学医学部)へ進み、医学を学ぶが、もとより仏教への関心は高く、京都の寺々を足しげく通った。また、禅に強い関心があり、東山建仁寺管長黙雷宗淵のもとに参禅したこともある。これを契機に、禅思想の表現の一つである水墨画に魅力を感じ、それに通じる文人画に次第に傾倒していった。
 また、布施コレクションの中でも、地元近代日本画家である片山雅洲の作品群(今回は出陳していない)は、その代表作ばかりであった、巻太郎と雅洲の深い交友関係がうかがえる。雅洲もまた黙雷の禅話に感銘し、参禅して直接教えを受け、その後の精神的な大きな支えとなった。

 ▲天下人不知價 近代 ▲龍図 大正6年(1917) 
   建仁寺

 建仁2年(1202)に土御門天皇の発願により、栄西(えいさい)を開山に迎え、年号にちなんで建仁寺と称した。当初は、天台・真言・禅三宗の兼学道場だったが、文永2年(1265)に蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が住持となってからは、禅寺となり、五山に列せられ、室町時代には多くの文筆僧が誕生している。
 
▲不二山図 大正5年(1916) 
 など計43点
 
 
 
 
 雨森芳洲関係資料ユネスコ「世界の記憶」登録推進事業
 
特別陳列
 「世界に伝えたい雨森芳洲の『誠信』のこころ」



                   期間: 平成29(2017)年10月4日(水)-12月3日(日)

 開催趣旨
 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668〜1755)は、伊香郡雨森村(長浜市高月町雨森)出身と伝えられる江戸中期の儒学者です。
 対馬藩(長崎県対馬市)に仕え、藩では教育面を担当し、内政・外交・藩主御用人も務めました。特に外交においては、朝鮮との交流で「誠信(せいしん)(誠意と信義)の交わり」を説き、その思想は現代の国際認識にも当てはまります。
 現在、日本と韓国との共同提案で、朝鮮通信使に関する記録についてのユネスコ「世界の記憶」(旧称:世界記憶遺産)の登録を目指す取り組みが進められています。(昨年3月申請、今秋採択予定)。登録資料数は、日本側48件209点、韓国側63件124点、総数111件333点であり、うち36点が長浜市の芳洲会が所有する「雨森芳洲関係資料」です。この展示では、36点すべてを公開し、芳洲の思想や事績を紹介します。

主催:高月観音の里歴史民俗資料館
共催:雨森芳洲関係資料ユネスコ「世界の記憶」登録推進実行委員会

             
       
 おもな展示資料
 
「交隣提醒(こうりんていせい)」
1冊 享保13年(1728)
25.7cm×19.5cm 重要文化財
芳洲会蔵(高月観音の里歴史民俗資料館保管) 

第6代藩主宗義誠(そうよしのぶ)に上申した対朝鮮外交についての意見書。朝鮮の風俗習慣をよく理解し、違いを尊重して交隣に至るべきであると事例を挙げて説く。偏見や蔑視(べっし)を抱いてはならないとも強く主張し、また豊臣秀吉による朝鮮侵略を「無名(むみょう)の師(いくさ)」と断言して「誠信(せいしん)外交」を説いている
   
「交隣大マ録(こうりんだいきんろく)」
1冊 江戸時代中期
26.5cm×20.0cm 重要文化財
芳洲会蔵(高月観音の里歴史民俗資料館保管)

対馬の外交監察機関・以酊庵(いていあん)の記録をもとに、日朝通交に関する覚書その他を編集したもの。外交書簡作成のために使用する漢字や字義(じぎ)に関するメモ、釜山(ぷさん)にある対馬藩の外交施設「倭館(わかん)」に出入りする者に対する注意書きなどが収録されている。享保15年〜17年(1730〜32)頃にまとめられたとみられる。
   
 「国書書改惣論(こくしょかきあらためそうろん)」
1冊 正徳元年(1711)
26.7cm×20.8cm 重要文化財
芳洲会蔵(高月観音の里歴史民俗資料館保管)


正徳元年(1711)幕府儒官新井(あらい)白石(はくせき)の建議により、将軍の称号を「日本国大君」から「日本国王」に改称し、通信使の待遇変更等、一方的改変が行われた。芳洲は、白石に激しい反論を加えた。将軍返書に朝鮮国王の諱(いみな)「懌」が、また朝鮮国書に将軍家光の「光」が含まれ、一度取り交わした国書を差し戻して双方で書き改め、対馬で再び交換する異例の事態となった。本書は、この一件をめぐり、通信使と白石の間を往復して交渉する芳洲の姿を伝えている。
 
   
 「雨森芳洲了簡書草案(あめのもりほうしゅうりょうけんしょそうあん)」
1巻 江戸時代中期
24.2cm×122.0cm 重要文化財
芳洲会蔵(高月観音の里歴史民俗資料館保管)


幕府老中井上河内守の求めに応じて、芳洲が記した意見書の草案。正徳年度の第8次通信使の際の忌字に関することや、白石失脚後の第9次通信使のことなどが記される。
           
  「雨森芳洲肖像(あめのもりほうしゅうしょうぞう)」
1幅 江戸時代中期
76.0cm×43.0cm 重要文化財
芳洲会蔵(高月観音の里歴史民俗資料館保管) 

唐服をまとい、袖に手を入れ胸前で拱手(きょうしゅ)し、儒巾(じゅきん)をかぶった晩年の姿。朝鮮通信使画員の作と伝える。芳洲の存命中に通信使は4回来日(芳洲15歳、45歳、52歳、81歳)していることを考え合わせると、延享5年(1748)、第10次通信使の際、芳洲81歳のものか。
 など計36点
 
 
関連事業
■展示説明会
  
  日時:平成29年10月28日(土)午後1時30分から
    場所:高月観音の里歴史民俗資料館 2階展示室


■「芳洲子どもミュージカル」
     日時:11月11日(土)午前10時30分から
     会場:富永小学校(長浜市高月町井口160)
     主催:雨森芳洲関係資料ユネスコ
         「世界の記憶」登録推進実行委員会、長浜市

■シンポジウム
 雨森芳洲関係資料ユネスコ「世界の記憶」登録記念シンポジウム
 「世界に伝えたい雨森芳洲の『誠信』のこころ
  〜『世界の記憶』を地域でどう活用するか〜」

     日時:11月12日(日)午後1時30分〜4時30分(予定)
     会場:木之本スティックホール(長浜市木之本町木之本1757-6)
     主催:雨森芳洲関係資料
         ユネスコ「世界の記憶」登録推進実行委員会、長浜市 

     第1部 映像紹介
          「誠信交隣の象徴 朝鮮通信使の道」上映
     第2部 Reveミニコンサート
     第3部 パネルディスカッション
          「『世界の記憶』を地域でどう活用するか

           パネリスト(予定)
            @田川市石炭・歴史博物館副館長
              森本 弘行 氏
            A舞鶴引揚記念館 館長
              山下 美晴 氏
            BNPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会事務局
              小島 繁樹 氏
            C長浜城歴史博物館学芸員  佐々木 悦也
           コーディネーター
            長浜市市民協働部次長 太田 浩司
↓クリックでチラシ表示↓

■芳洲会講演会
 「朝鮮からみた雨森芳洲と通信使」
     日時:11月23日(木・祝) 午後1時30分から
     会場:虎姫文化ホール(長浜市宮部町3445)
     講師:吉田光男氏(東京大学名誉教授)
     主催:芳洲会
     共催:雨森芳洲関係資料ユネスコ「世界の記憶」登録推進実行委員会、長浜市

  
 
 特別陳列 布施美術館名品展7
 「鉄斎が愛した文人画

                                         

                      期間: 平成29年3月15日(水)-5月7日(日)

 開催趣旨
 長浜市高月町唐川に建つ布施美術館(非公開)は、当地出身の医師・布施巻太郎(1881-1970)が収集した富岡鉄斎(1836-1924)をはじめとする文人画、経典や古文書、医学・薬学関係資料といった数多くの貴重なコレクション収蔵する美術館です。
 初代館長である布施巻太郎の「自ら収集したコレクションを、国民の文化遺産として永く後世に起こしたい、広く社会教育に活用したい」という美酒津間のの創設理念を受け継ぎ、高月観音の里歴史民俗資料館では毎年1回、布施美術館のすぐれた所蔵資料を特別公開しています。
 今年は、布施コレクションの原点でもあり、巻太郎と実際に交流のあった文人画の巨匠・富岡鉄斎や、鉄斎が所有していた浦上玉堂(1745-1820)や、鉄斎と親交があり、合作を数多く残した板倉槐堂(1822-1879)をはじめとする文人画の絵画作品を通じ、鉄斎が愛し、影響を受けた文人画を紹介します。
 ○関連事業○
  展示説明会
    日時:平成29年3月18日(土)午後1時30分から
    平成29年5月3日(水)午後1時30分から
    会場:2階展示室にて

  友の会連続講座「文人画の魅力(仮題)」
    日時:平成29年3月26日(日)午後1時30分から
    会場:高月公民館 第2研修室
    講師:河野 道房 氏(同志社大学美学芸術学科教授)
    参加費:500円(観音の里資料館友の会会員は無料)
琵琶湖舟遊図(びわこしゅうゆうず) 富岡鉄斎筆 1幅 絖本墨画淡彩
135.0×33.1 明治3年(1870)

 鉄斎の画業の初期にあたる35歳の作。単調な筆致であるが、よほど楽しかったのであろうか、人物の大振りな身体描写から琵琶湖で舟遊びする様子が生き生きと描かれる。賛(絵画に添えられた詩や文章)は、坂田郡下坂中村(長浜市下坂中町)出身の医師であり、幕末の志士とも交流のあった江馬天江(えまてんこう)(1825-1901)が書いている。鉄斎が20代の頃はちょうど幕末の動乱期にあたり、京都出身の鉄斎も天江をはじめ多くの志士と交際している。
 賛には、鉄斎、天江の他、書家・漢詩人の神山鳳陽(ごうやまほうよう)(1824-1889)、天江の兄である板倉槐堂の4人が、名所に逢うたびに詩を題し琵琶湖を舟遊したことが記されている。鉄斎周辺の文化人との交友関係を知る事ができる近江ゆかりの作品である。
  桑芋煮茶図(そうちょしちゃず) 富岡鉄斎筆 1幅 絹本著色
142.0×42.5 大正元年(1912)

 中国・唐の茶人である陸羽(りくう)桑芋翁(そうちょおう))(733-804)が、天下第二の泉とした恵山泉の水の品定めする様子を、群青や緑青の絵の具を用いる青緑山水で描く。鉄斎70歳代の山水画作品には水墨だけでなく青緑山水も多く、青や緑を効果的に配することで、俗世から離れた穢れない自然風景を描き出している。

山碧水明処図(さんぺきすいめいしょず) 富岡鉄斎筆 1幅 紙本墨画
146.4×40.3 大正10年(1921)

 山碧(紫)水明処(京都市上京区東三本木通南町)は江戸時代の儒学者であり、山水画でも有名な頼山陽(らいさんよう)(1780-1832)の書斎である。画面手前の家屋の奥に山紫水名処が描かれている。鴨川を挟み、画面奥に濃墨と墨の滲みを用いることで雄大で崇高な印象を受ける比叡山を配し、遠方に比叡山をも望むことのできる風光明媚な山紫水名処の様子を見事に描き出している。
鉄斎は山陽の詩に註をつけた『山陽詩註(さんようしちゅう)』という本を増校するなど、山陽を尊敬しており、明治5年(1872)から2年ほど山紫水名処に移り住んでいる。

玉堂琴士画像琴士賛(ぎょくどうきんしがぞうきんしさん) 富岡鉄斎筆、浦上玉堂賛 1幅 上部:絹本墨書/下部:絖本墨画
上部:15.4×14.2/下部:24.0×16.0 大正13年(1924)

 浦上玉堂が書いた琴について吟じた詩(作品上部)と鉄斎が描いた玉堂の肖像(作品下部)の合装作品。
 浦上玉堂は岡山・鴨方(かもがた)藩士に生まれ、生涯、琴と詩書画を愛した。49歳の年に脱藩、各地を遊歴し、世俗から離れ余技に勤しむことを理想とする文人としての人生を歩んだ。文人としての生き方を理想とした、鉄斎の玉堂に対する共感と憧れをこうした作品から感じとることができる。
万籟千畳図(ばんらいせんじょうず) 浦上玉堂筆 1幅 紙本墨画淡彩
133.8×62.0 江戸時代19世紀

 画題の万籟(ばんらい)とは万物が発する音や響き、千畳(せんじょう)とは山々の連なりの意。湿潤な筆致で、玉堂ならではの緻密に描かれた木々を画面前方に密集して描き、遠景に山々の連なりを配し、木々のざわめきが感じられそうな深遠な自然風景を描き出している。
 箱書には、鉄斎による「玉堂琴士画万籟千畳図」の題字と、この箱書が大正12年(1923)節分の日に浄名庵において書かれたことが記されている。

涼炉 蘭亭之図(りょうろらんていのず) 刻 青木木米作 1基
江戸時代19世紀

 凉炉とは煎茶の際に用いられた湯を沸かす道具である。作者の
青木木米(あおきもくべい)(1767-1833)は江戸時代京都で活躍した陶工であり、文人画家としての才能も発揮し、著名な作品を残している。
 当時著名であった鉄斎の下には、多くの作品依頼者や訪問者が訪れた。ほとんどの面会は謝絶され、鉄斎との面会を夢見て敦賀から足繁く京都の鉄斎宅へ通った巻太郎も例に漏れなかった。しかし本作を持参したところ、その鑑識眼が認められ大正11年(1922)ついに憧れの鉄斎との面会を果たした。
 本作には鉄斎の箱書も残されており、日本で唯一学識がありすぐれた陶工はただ青木木米のみであると、木米を称賛している。巻太郎と鉄斎を繋ぐことになった記念碑的作品といえる。

 
槐鉄合作山水図(かいてつがっさくさんすいず) 富岡鉄斎・板倉槐堂筆 2幅 
紙本墨画 各138.0×48.0 明治時代

 鉄斎と坂田郡下坂中村(長浜市下坂中町)出身で幕末の志士として有名な板倉槐堂の合作作品。賛によると、作品1は画面手前の岸辺と松を槐堂が、小亭と遠山を鉄斎が描き、作品2では、全景を槐堂が、橋を渡る釣竿を持った漁人を鉄斎が描いたとされる。
草花図(くさばなず)(部分) 板倉槐堂筆  紙本淡彩
1巻 第1紙:16.7×332.5 明治7年(1874)

 文政5年(1822)坂田郡(長浜)の名家下坂家の5男として生まれた槐堂は、のちに京都の薬商の後継ぎとなり、幕末の動乱の中、志士たちを支援した。鉄斎と出会ったのもこの頃だと考えられる。
 詩書画にすぐれていたようで、坂本龍馬(1836-1867)に送った≪梅椿図≫をはじめ多くの絵画作品を残している。中でも花鳥画に非凡な作品が多く、槐堂が湿潤な筆致で描く草花には瑞々しさが溢れている。晩年にあたる本作にも、こうした槐堂の特徴がよく表れている。

王義之像(おうぎしぞう) 池大雅筆 1幅 紙本墨画 
75.8×36.5 江戸時代18世紀

 王羲之(おうぎし)(303年-361年)は書聖ともいわれる中国・東晋時代の書家。おだやかで伸びやかな大雅らしい筆致の作品である。
 鉄斎が最も評価した文人画家が池大雅であり、大雅の住居跡に建てられた大雅堂前の鉄斎の写真も残されている。